遠い記憶2019年12月04日 06:01

明治40年、松三は宮城県南部の白石で温麺(ウーメン)製造工場の責任者になっていた。松三の父は福島県北端の梁川町(現在伊達市)で生糸買い付け業者をしていたが、日露戦争後、朝鮮が実質的に日本領となり安い生糸が大量に国内に入ってきたため、買い付け業は失敗し、一家離散となってしまった。兄弟には北海道に開拓農民として渡ったものもいる。松三はひとり白石まで出て来て、製めん工場に何とか仕事を見つけたが、持ち前の頑張りでここまでのし上がってきた。白石温麺は不思議な麺である。うどんではあるが、ひと月乾燥させることでスパゲッティのように硬く日持ちするようになる。数ミリまで細長く伸ばした小麦の麺を乾燥し、3寸ほどの長さに切りそろえる。お湯に入れればすぐに柔らかくなるのは寒い東北にはピッタリだった。言い伝えでは通りがかりの旅の僧が作り方をその工場の創設者に教えたらしいが、本当だろうか。白石城主だった片倉家に聞いてみたら、伊達政宗がローマに派遣した支倉常長がイタリアから持ち帰ったものの中に同じような乾麺があったらしい。いずれにしても小麦の扱いは十分習得した。仙台に出て、もっと手広く商売をしよう。そして、家を再興しよう。松三は三男ではあったが、父の商売人気質を最も強く引き継いでいたのである。仙台にでて、南端の長町で小麦製粉工場を作ると、当時のパン洋食ブームに乗って事業は順調に拡大し、東北精麦という名前の大きな会社になっていった。また、敏郎など七人の子供にも恵まれ将来は何の心配もないように見えた。しかし、この平和な大正の世にウオール街で起こった大恐慌がここ仙台にまで影響するとは予想することができなかった。小麦を東北一円から買い付けていたのはいいが、この不景気でパン食ブームは一気にしぼみ、大量の小麦粒と借金だけが残った。松三一家は工場を畳んだが、借金取りのくる長町には居られなくなった。仙台市の中心部を挟んだ反対側の北一番町に狭い借家を見つけ、酒の小売りを生業とするようになった。昭和に入り、子供たちは次々と結婚して家を出て行ったが、末娘の結婚相手は知り合いの製めん業者だったので、隣接の借家に住まわせ、製めん業も始めるようになっていった。しかし、世の中は太平洋戦争の敗色が濃厚となり、仙台も空襲の頻度も増えていった。そして、昭和20年の春、他の都市と同じく、大空襲に見舞われることになる。そのころ、敏郎は市街の北の端で松三と同じような酒屋を開き、お菓子屋の娘、恒子を娶っていた。敏郎は目が悪かったので乙種合格だったが、戦局の悪化で呼び出しを受け、北海道千歳基地に徴集された。恒子は空襲の夜、生まれたばかりの双子の娘と小さな酒店の中で焼夷弾の直撃をうけないことだけを祈っていた。幸運にも、松三の店も敏郎の店も直撃も延焼も免れることができた。そして、終戦となり、食糧難雄時代となったが、敏郎の店は配給所に指定され、生まれてきた子供たちを飢えさせることはなかった。松三は嫁の恒子をなぜかかわいがっていた。同じ商売人出身の家柄だったので気心がしれたのかもしれない。恒子に連れられ、末子の次郎も時々北一番町の家に遊びにきていて、松三の話を聞いていた。そのころ、敏郎の弟、克郎は白石に住んでいたので、松三は白石時代の思い出を語った。その中に、白石温麺の由来が、旅の僧ではなく、ローマから支倉常長が持ち帰ったものだっという話もあった。次郎にはなぜかそれが遠い記憶として残ったのであった。