芭蕉と若林城2021年07月29日 11:08

榴岡天満宮内芭蕉句碑
 この春にBSで再放送されたブラタモリによれば、仙台駅の南東にある若林城(現宮城刑務所)は、伊達政宗が隠居所として建てた実は第二の居城であったとのこと。これは一藩一城の徳川幕府の掟に反する仕業であり、伊達政宗の独立志向を表す歴史的事実である。
 ところで、松尾芭蕉の奥の細道行脚の裏の目的は奥州諸藩の動向調査であったとの説がある。松尾芭蕉が伊賀出身だそうなので、如何にもありそうなことではある。
 先日、仙台駅の東、楽天の本拠球場に行く途中にある榴岡公園に芭蕉の句碑があるのを見つけた。芭蕉がこの地に立ち寄ったことを記念して、孫弟子が芭蕉の死後この地に建立したらしい。
 この句碑のある場所と、若林城は直線距離にして約2キロである。芭蕉一行はこの後、松島に向かうが、若林城をかすめてこの榴岡公園に来たのであれば、本来の奥州街道とは異なる東側の経路である。
 奥州街道は現在の国分町であり、仙台駅から約1キロ西側を通っている。奥州街道と仙台の目抜きどおりである大町との交差点も芭蕉の辻と呼ばれていたが、これは、仙台市のHPによれば、松尾芭蕉とは関係のない、芭蕉という虚無僧が住んでいたことに由来するとのことである。
 従って、伊達城下をどのように松尾芭蕉一行が通過したかが、芭蕉が本当に幕府の隠密の任務を帯びていたかを推定する重要なポイントになりそうだ。
 奥の細道では、仙台での句は読まれていないようではある。榴岡公園の句碑は金沢で詠まれた秋の句なのである。
 実際に奥の細道では、仙台の部分は概ね以下のように記されている。
”仙台には名取川を渡って4,5日滞在した。その一日を知り合いの案内で付近を探索した。宮城野萩の茂る草原を越え、小田原付近をめぐって榴岡に戻る。更に、木下、薬師堂、天神などを参拝してその日は暮れていった。”
 この記述から芭蕉一行は名取川を渡ったのち仙台の東口に宿をとったようである。また、仙台の南東方向には散策したが、その他については記載がない。若林城はあったはずだがこれも記載がない。天神というのは現在の住所では若林区上飯田天神と思われる。若林城は榴岡とこの天神付近を結ぶ直線上に位置している。若林城を観察した可能性は消せなかった。