太田光とスピノザ2021年08月18日 11:31

 先日の爆笑問題カーボーイで、太田光氏が概略以下の話をしていた。
「言葉を獲得した人類の歴史は、生きることが決められている肉体と生きる意味を求めようとする意識をどうすり合わせるかによるものだ。」
 実際に用いた言葉は最近の猫と人間の命の話題に沿って洗練されたもので、流石に太田氏である。
 これまで誰も生きることの意味を言語化できなかったのは確かである。他の多くの地域、民族と同様、中世ヨーロッパでは生きる意味を神という言葉で暫定的な解を得ていたと解釈することができる。即ち、すべては神様の思し召しである。神がすべてを決めるのだから、人間は、神様の言われる通り(聖書に従って)生きればよいというわけである。
 しかし、スペインからの避難民であるスピノザはユダヤ教の厳しい戒律に疑問を持ち、ついにはユダヤ教会から破門されてしまう。
 それでも生きる意味を考え続けたスピノザは、哲学書エチカを残して亡くなる。エチカは、ある解説書によれば、人間が人間らしく自由に生きるための倫理を追求したものだそうである。難解であるので、私的な解釈だが、スピノザの追及した自由に生きることとは、各自が学習し、追及した真理に従って生きることであると理解している。
 生きる意味を論理的に追及すること自体が、言葉を持った人間の使命なのかもしれない。
 
 冷戦を生き抜いたモスクワ川河畔で見たロシア正教教会の朝の礼拝に並ぶ数千人の人々は、生きる意味をどう思っているのか知りたいところである。

 補追)今朝、葉の裏が白色に見える木が大量に生えた林を見つけた。ロシアにもありそうだ。








ウラジロストック。