スピノザのエチカの一解釈2021年12月06日 05:30

 スピノザのエチカという哲学書?は、17世紀にユダヤ教会を破門にされたスピノザが幸せに生きる方法を論理的にまとめたものらしい。哲学そのものが特殊な言語の羅列の上、幾何学の証明のような論理の積み重ねなので、読んでいても常人にはほぼ理解不可能というものである。
 しかし、このエチカは西欧文面のもとで生きる現代人の生き方の見直しにもつながる重要な視点を示しているとのことである。
 まだまだ未解読ではあるが、私なりにまとめてみるとエチカでは以下のようなことを言いたいのではないだろうか。
(1)あなたの意見はほぼすべてが他人の意見の影響できまっており、あなたに自由というものはない。自由意志で意見を表明しているとか、自由に生きているというのは錯覚である。
(2)しかし、神は万物に宿り、あなたも神の一部であるはずだ。
(3)神は全てから自由な存在であり、無限に宇宙に広がり、あらゆることが神の延長線にある。
(4)従って、あなたも幸せに、自由に生きることができるはずである。
(5)そのためには、他人の意見に左右されずに、知性を磨いて神の領域に近づくことである。子どもっぽい宗教的、儀礼的な行為は無意味であり、悲しみの感情の発露である憎しみや差別にふりまわされることなく、知性にもとづいて行動することで、喜びに満ちた幸せな人生を送ることができる。

このように原理的幸福論を説明したものだと解釈している。

嘗て、小田眞は「中国には自由は無くなったかもしれないが、飢餓も無くなった」と述べたが、米国の知識人は、「飢餓は無くなったかもしれないが、自由も無くなった」と反論したそうである。
飢餓がなくなれば自由が最大の幸福であろう。最近の中国の儀礼的な国家行事を見ていると、個人の自由がないことがこの国を破綻に導かなければ良いなと感じる。また、国の情報操作により個人の意見が左右される事態を防ぐために、知性を磨き自分の真の意見、即ち、真の自由を獲得することの重要性を再認識させられる。これは、マスコミやネットの意見を鵜呑みにし、自分の意見だと思って発信している一部日本国民にも言えることであろう。

オミクロン株の感染速度を考慮した感染者数増大2021年12月08日 05:42

 オミクロン株の感染速度(感染してから他の人に感染させるまでの時間)はデルタ株の半分程度であるとの報道があった。
 ここでは、デルタ株の感染速度を3日、オミクロン株の感染速度を1.5日として、原子炉動特性方程式を応用した指数関数式により感染者数増大を予測した。
 他の仮定として、初期感染者数10人、集団免疫レベル(Do、抗スパイクタンパク抗体を十分保有している住民割合)を0.7とした。0.7であれば感染者数は増減しない一定値になる。

 結果を図に示す。

 抗体保有者割合0.5の場合、オミクロン株では、感染者数は1か月以内に急速に増加する。
 一方、抗体保有者割合0.6の場合は、オミクロン株での感染者数は、デルタ株での抗体保有者割合0.5の場合と同程度の増加である。
 デルタ株の場合は、抗体保有者割合が0.6であれば、増加速度は非常に遅い。

 従って、オミクロン株がデルタ株を凌駕するのであれば、抗体保有者割合が半分程度になると考えられる年末までには、追加ワクチン接種を行うべきであろう。

原爆医療法の創設とICRP基準の見直し必要性について2021年12月12日 06:39

今朝のNHKの広島被ばく者に関する特集番組によれば、1957年原爆医療法の創設の裏には、被ばく者が当時国家的な機運が高まっていた原発の実用化のために、事故時に原爆被爆者の医療の経験が役立つはずだという理由による運動があったとのことである。
 原爆被爆者のがん発生率が一般の1.5倍であるという解説もあった。
 
 では、福島事故対応でこれらの情報が反映されたであろうか。
ICRPは確かに広島長崎の被爆者データを大規模に収集したが、低線量領域での被ばく影響はあいまいなままである。そして、福島事故当時の厚労省、厚労大臣はICRPによる放射線管理基準をそのまま避難区域設定に適用し、多くの避難者を生んでしまった。

 一方、がん治療による大量被ばくの人体影響データは医療界に埋もれたままで、広島長崎の被爆者の願いは忘れられたままである。
原爆の瞬間被ばくと、がん治療の時間オーダーの被ばくではDNA修復挙動に大きな差があると考えられる。
 原爆とがん治療の照射線の両者を被ばくした方々の貴重なデータがICRP基準の見直しに十分反映されるような体勢を作る必要がある。

米竜巻被害と福島事故の関連性について2021年12月13日 07:02

米国中西部の竜巻被害による死亡者は100人を超えるようだ。
米国中西部は昔から竜巻が最大の災害であった。カンザスに住んでいたドロシーが竜巻に飛ばされて夢の国に行ったのが米国人ならだれもが知っている映画オズの魔法使いの最初のシーンである。

世界最初の原子力発電所はアイダホの砂漠に建設されたが、その非常用電源は地下に配置されていた。おそらく竜巻被害も想定した配置であろう。
その後、GEにより計開発されたBWRも同様に非常用電源は地下に配置された。これが日本に導入された1960年代、当時関係会社の責任者でもあった土光敏夫はGEに対し、日本独自の設計チェックをしたいと申し込んだが、GEから設計変更するなら日本には輸出しないと回答がきたそうだ。当時、原発の導入は国家的事業だったのである。その結果、福島で事故を起こした4つのプラントはGEの設計のまま建設されることになったようだ。
先日、ヤフコメで、福島1号機のICの事故時の運転状況の関し、津波に飲まれた非常用電源の地下配置問題が話題になっていたが、その経緯にはこのような背景がある。

最近、新技術も輸入すればよいとの考えで、国の開発研究予算が絞られている。
しかし、どんな技術もその適用される環境で異なる結果をもたらす。5Gでも人口密集地と過疎地では影響が異なるであろう。地域の特性に合わせた技術開発が必要だし、政府機関、公共性の強い期間はその点を深く考慮して方針を決めるべきだ。

皇族の養子縁組案は憲法違反の疑いがある2021年12月23日 05:16

 政府の有識者会議が諮問回答した皇族減少の提案の中で、養子縁組案は憲法違反の疑いがある。
 この案によれば皇族が旧宮家の男系男子を養子縁組可能とするものであるが、本人は天皇の資格が無く、その男系子孫に天皇継承権を与えるとするものであると読める。
 これは素直にこの提案を解釈するならば、現皇族女子と旧宮家の男子の結婚を推し進めようとするものであり、現皇族女子の結婚の自由を奪うものである。少なくとも政府による圧力であることは間違いない。
 これは、結婚が両性の合意のみにより成立し、誰からも強制されないとしている現憲法の趣旨に反するものである。皇族女子にとっては強い心理的な圧力になるだろう。皇室を離れたいという第二の眞子さんが現れてもおかしくない状況を推し進めるものである。
 また、皇室男子にとっても、心理的な圧力になる。彼が天皇になりたいと思っていたならば、他に候補者がどこからか現れることになり、それは政府の意向に沿ったものである。自分の子ども以外に皇位継承者が現れることにもなる。
 一方、彼が現在の皇族女子と同様に、皇室を離れたいと思っていたならば、政府が後釜を探してきてくれると思い、気楽に自分の意思をおしすすめることになるであろう。(この例は英国王室で昔起こったことがある。)
 どちらにせよ、有識者会議の意図とは逆に、皇位の安定的継承にはつながらず、逆行するものである。現天皇家と他の宮家との分断の傾向を強める案でもある。
 単に生物学的な皇位継承だけを考えるからこのような人権無視の案になるのである。政府は現代の人権状況、情報社会に相応しい北欧型の皇室を実現するための方策を真摯に推し進めるべきである。
 そのためには、皇族の経済的な自由度を大きく許容するとともに、宮内庁の組織を現憲法に相応しい体制に改編し、GHQにより国有財産とされた旧皇室の財産を皇族に返還するべきである。

拡大自殺を防ぐための方法2021年12月31日 09:27

 大阪北区のクリニックの放火容疑者が死亡した。拡大自殺を図ったとみられている。
 他人を道連れに自殺を図るのを拡大自殺と称するそうだが、このような例が近年増加している。その心理は一人での自殺が怖いので道ずれにするというよりも、社会への反発から仮に拡大自殺に失敗しても数人殺せば死刑になれるから確実に楽に死ねるということであろう。即ち、確実に国家により、自殺ができるということである。これは、社会への復讐にもなる。なぜなら、自殺したいという自分の希望を国が認め、国が自らその助力をするということになるからである。

 では、どうすればいいのか。答えは単純である。
 死刑制度をなくすことである。

 これにより、他人を道ずれにしても国家から自殺の支援を受けられないことになる。従って、自分で確実に自殺する方法を選ぶしかなくなる。なぜなら、他人を巻き添えにする場合には、事件の途中で反撃を受け、必ずしも自殺できるか不確実な事例が増えるからである。
 今回の事件では、運悪く、被疑者の狙いがかなってしまったが、似たような秋葉原の事件、京王線の事件、相模原の事件など、いずれも犯人は事件時に自殺することなく、国により死刑判決を受けている。今回は確実に犯行を遂行できるように、事前に周到な準備をした結果であるが、それでも被疑者は助かる可能性もあった。
 仮に今回も被疑者が助かって、死刑判決を受けたら、ますます、模倣犯が増えるであろう。
 一方、死刑制度が無ければ、彼は、一生、不自由な暮らしで反省を強いられることになる。
 どちらが、模倣犯を呼ばないだろうか。答えは明白であろう。

 国家の刑罰は社会を守るためにある。