自由の国アメリカでの中絶反対論争をどう考えるか2022年06月25日 04:02

 アメリカの小中学生が一度は訪れるワシントンの国立歴史博物館では、自由を戦い取ってきた米国の歴史と自由と国防の重要性を教え込まれる。そこでの自由とはだれにとっての自由なのか。物言わぬ胎児も自由に生きる権利があるというのが今回の連邦最高裁の判断だろう。
 しかし、そうならば、アメリカが戦ってきたすべての敵国の人間も胎児同様、生きる権利を認めるべきであろう。外国人の生きる権利を奪いつつ、胎児の命は守らなければならないというのは、どう考えても矛盾している。米国の二重基準の弊害がここにも表れている。それが人間というものかもしれないが、理想を追求する国であれば、法律上は平等に人命を扱うべきである。なぜなら、胎児も敵国の人々も米国籍を持っていないから、米国の法律を作る人々は公平に両者を扱う義務がある。
 米国人の多数は、原爆投下が正しかったと考えているが、原爆投下の正当性を主張しつつ、中絶反対の主張をするような人々を信用することはできない。
 スピノザは、神とは何かを追求した結果、生活の基盤であったユダヤ教会を破門されたが、中絶反対派も「汝殺すなかれ」という聖書の言葉の意味を追求するならば、カソリック教会の教えを疑うことから始めるべきだろう。
 スピノザは、神をすべての原因と信じ、一方、ユダヤ教会の教義には疑問を持った。即ち、疑うことと信じることが、両立するのだということをスピノザの哲学が教えている。このことを米国のパブテスト派の信者は理解する必要がある。

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