統一教会信者二世の方々に関して2022年10月10日 04:14

 外国特派員協会における旧統一教会信者二世の方の記者会見でのやり取りや、教会側、ご両親の応答が話題となった。
 宗教や信仰は、個々人の精神に関わる問題だから、その主張の善し悪しを判断することは避けなければならない。親子関係が絡めば更に判断することは困難だろう。
 ここでは、人類の子どもとはどういう立場のものなのかという観点で見てみたい。
 嘗て、江戸時代など、庶民が生活に困った時には、子どもを売ったり、親の都合で働かせたりして、自分の意のままになる生き物として扱うことが、間々あった。今でも、開発途上国ではよくあることで、国際NPO団体では、子どもの権利を強調し、伝統社会と対立することも多い。
 ある生物種の生存のために、親を犠牲にするか、子どもを犠牲にした方がいいのかという問題もあるが、それは、飢饉など究極の事態なのでケースバイケースであろう。
 ここで問題にされているのは、親の精神的救済の為に、子どもを犠牲にしても良いのかという問題である。親は精神的に飢餓状態にあるが、その宗教に救われたと信じている。そして、自分の子どもも精神的飢餓状態にあると思って、その宗教を押し付けるという構図である。
 このため、構図で、精神的飢餓状態を身体的飢餓状態と比較できるかどうかを考えれば、解は得られるだろう。
 精神的飢餓状態というものは、社会的な人間関係から生じるものである。幼児が生まれながらにして精神的飢餓状態にあるはずはない。長じてそうなるならば、その主要因は親子関係であろう。子どもがそのような精神的な危機を周りに訴えるなら、それは、社会が手を差し伸べる必要がある。
 それは、飢饉状態において、親が肉体的に飢えており、子どもを犠牲にしようとする時には、親の反対を押してでも子どもに対し、周囲が食糧などの支援をして救出する必要があることと同じである。
 可能なら、親子関係がスムーズになるような解決方法があれば良いが、親子だからこそ、人間関係を変えるには時間と手間が必要である。