生物学的性と心理学的性の不整合は何故生じるのか2022年12月08日 11:49

 12月7日の日テレニュースによれば、
「性別変更の要件として、生殖機能をなくす手術が必要とされていることが、憲法に違反するかどうか争われている裁判で、最高裁は7日、審理を大法廷に回付しました。これまで「合憲」とされてきた手術の規定について、改めて憲法判断が示される見通しです。
 性同一性障害特例法では、性別を変更する要件として、「結婚していないこと」や「生殖機能を失っていること」などが定められています。
性同一性障害と診断され、今回、裁判所に申し立てを行った戸籍上の男性は、女性への性別変更を求めましたが、生殖機能をなくす手術を受けていないことを理由に、1審・2審ともに性別変更が認められませんでした。
 これを不服として特別抗告していましたが、最高裁は7日、審理を大法廷に回付しました。
 申し立てを行った戸籍上の男性側は、「性別変更の条件として外科手術という重い負担を課すことは、憲法に違反する」などと主張しています。
 最高裁は2019年、手術の規定について「合憲」との判断を示していますが、改めて憲法判断が示される見通しです。」
 とのことである。

 ネットの意見では、大部分がこの手術は受け入れるべきであるという現状維持派が圧倒的である。
 代表的な意見は、浴場やトイレで、見た目が異性の人間が自認する性に従って、合法的に侵入されたら困ることになるということである。これを利用すれば性犯罪の温床にもなり得るという観点もある。

 生物の歴史において、有性生殖生物が現れたのは、比較的最近のことである。二河成男「生物の進化と多様化の科学」、放送大学教育振興会(2017)第14章によれば、有性生殖が無性生殖に対して有利な点は環境変化に強い点などだが、遺伝子を残すには手間がかかりすぎるという欠点もあり、有性生殖が進化形態だという根拠はない。

 生物のDNAには、無性生殖期における遺伝子蓄積のほうが圧倒的に多いのだから、ヒトの胚発生においても、その後の成長においても性が常に多数派の通りの発現をするとは限らない。即ち、性的少数者の発現は生物の進化を体現しているということになる。性同一性障害は、脳における性発現の少数者ということであろう。また、所謂半陰陽は臓器部分の性発現の少数者ということになる。これらの少数者を、多数派のヒトのオス、メスが共同体生活のために、生命にも関わる可能性がある手術を強制できるのかという、自由と民主主義の根幹に触れる問題となる。

 これが、最高裁大法廷に回付された理由だろう。

 今回の裁判の争点は、性別変更の必要条件に、生殖機能の喪失手術を受けなければならないかという点ではあるが、もう少し広い目で性別とは何かを考察してみた。
 日々の生活を振り返ると、性別を必要とする場面はそれほど多くはない。浴場、トイレなど、衣服を脱がざるを得ない場面程度ではないか。
 スポーツでは競争するための公平性確保のために、性別を便宜的に使っているが、競艇など男女の区別のない競技もある。IOCはトランスジェンダーに対し、ホルモン制限などいくつかの対策を示しているが、公平性確保というならば、パラリンピックのように障害?のレベルに合わせて細かく性区分を設ける方向で解決できるはずである。男女だけに区分を設けているのが問題の根源にある。それは生物学的に正しい区分とは言えないとだけのことである。

 振り返って、浴場、トイレの点に話を戻すと、これをひとまとめにしているコメントがネットには多い。実際には全く異なる問題である。浴場は入らなければ社会生活ができないということはない。宿泊施設でも大浴場以外の一人風呂は普通にあるので、各自が常識に合わせればよいだけである。性同一性障害の人は個人の認識に合わせ、公序良俗に従えばよいだけである。自認する性に合わるために公序良俗に反するようなことをする必要はないはずである。
 (なお、ある地方都市の日帰り温泉では、受付において、男女を見た目で区別して、男子又は女子の浴室のロッカーキーを渡していた。見た目だけでどうして区別できるのか常々不思議に思っていたが、先日、謎が解けた。やはり、時々客から男女を間違っているとクレームがつくそうである。)

 一方、トイレはやや問題が複雑である。欧米では、トランスジェンダーも考慮し、男女の区別をなくしたトイレもあるようだ。また、日本でも小さな居酒屋はトイレが一か所だけなので、区別しようがない。居酒屋で女性の直後に同じトイレに入るのは多少気まずい気はするが。
 逆に、中途半端に男女の区別のある公共トイレが問題である。しかし、多少気まずいだろうが、トランスジェンダーの方は自分の好みと公序良俗に従い、問題が生じないと思われるほうのトイレに入り、その場で必要なら個室に入るのはどうだろうか。この程度の制約を受け入れるということで共同生活と性同一性問題の両立を図れるのではないだろうか。

 見た目の男女の区別をする必要が無いのであれば、性別変更における手術は不要である。また、最高裁で問題となっている性同一性障害特例法の生殖機能喪失に関する手術規定は、法律上、女となった生物学上の男が子を女との結婚で設けた場合の社会的混乱を心配するものであろう。しかし、いまでも婚外子は生まれており、フランスでは女同士が子供を実子として育てる例もある。21世紀の現在、修正すべきは法律のほうであろう。

 真の問題は、社会生活のいろいろな場面で男女差別があることである。男女が、或いは、性的少数者が社会的に同等となれば、子育てをするカップルが、男と女であろうと、少数者の性別区分の二人であろうと、実質的な不都合がない社会に移行できることにる。それが長い生物学的歴史を抱え、発生学上の性的問題を抱えながら、少数者も含む自由と民主主義を両立させるべきヒト社会の進化の道である。