幸福に生きる術(すべ)を哲学書は教えてくれる2022年01月03日 06:42

 スピノザのエチカの畑中尚志氏訳(ワイド版岩波新書)を部分的に読んだ。難解な哲学書だと最初は思った。しかし、日常使わないがよく出てくる用語の意味を索引で理解しているうちに、何とか日本語として読めるようになってきた。
 そして、この哲学書は以外にも、非常に実用的な生活の知恵が詰まった本であるような気がしてきた。
 例えば、次の一節である。

 エチカ定理34 人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。

 この哲学定理は、日常用語で翻訳すれば、「積極的な意識で人に接すれば、その人の挙動で一喜一憂することもなく、相手を恨んだり、怒ったりすることはなくなる」
―という生活訓であろう。

 エチカ定理27 我々は、真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害し得るもののみが善あるいは悪であることを覚知する。

 この定理27の中の用語も分かりにくいし、この定理の証明も分かりにくいので読むのをあきらめたくなったが、用語集などから以下のように理解できる。

 この哲学定理は、「善、即ち、幸福になるために役立つものは、私たちが正しく理解できることに役立つ事柄であり、悪、即ち、幸福を阻害するものは、私たちが間違って認識してしまうことを助長する事柄である」
―という常識的で簡単な話を言っている。

 例えば、フェイクでない正確な情報は、正しい認識のために役立つ善であり、一方、麻薬や嘘は正しい認識には役立たない悪であるという常識的な生活訓になる。このような生活訓が実践されれば幸福になる近道である。

 しかし、スピノザはなぜわかりやすい生活訓ではなく、哲学書として抽象的な用語の羅列でこのエチカを書いたのだろうか。おかげで非常に理解しにくい。それは、時間空間を超えた一般論としての人間論を残したかったのであろう。一般論だからこそ、エチカは今でも読まれ続けているのであろう。
 ただ、完全ではなくても、翻訳書として、わかりやすい用語の使用や叙述によるものが欲しい。何しろ、エチカのなかでも「完全」というのは我々が勝手に決めた理想形に合ったものが「完全」とい呼ばれるものであり、すべての事物が神の延長なのだからすべての事物が本来「完全」なものなのである。即ち、どんな翻訳書であれ、勝手に我々が完全とか完全でないとか呼ぶことはできないということになる。

 かなりくどくなってしまった。これも哲学書の読みすぎのせいだろうか。(笑)

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