生年月日と年齢の間2023年10月24日 06:44

 昨日のモーニングショーで石原良純氏と玉川徹氏が生年月日が個人情報かどうかといったテーマで議論していた。

 では、年齢は個人情報なのだろうか。

 新聞もテレビもニュースでは、当人が公人やタレント、犯罪者でなくても ( )付きで年齢を公開しているのが普通にある。

 年齢も犯罪組織に渡れば生年月日同様悪用される可能性は強い。高齢者がターゲットになりやすいのは、モーニングショーの参加者はみな合意していたように見える。

 ところがその当事者の所属するマスメディア業界が、個人情報であるはずの年齢を大々的に公開している。この矛盾の方を先に議論してもらいたいものだ。

ジャニーズ問題と中島みゆきの歌2023年10月06日 04:48

 ジャニーズ事務所が公開した調査報告書

https://saihatsuboushi.com/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%EF%BC%88%E5%85%AC%E8%A1%A8%E7%89%88%EF%BC%89.pdf

と引用されているNEW YORK TIMESの2000年1月の記事

https://www.nytimes.com/2000/01/30/world/in-japan-tarnishing-a-star-maker.html

を眺めてみた。

確かにこれはマスコミの不作為による保身である。その日本人マスコミに対する皮肉がこの新聞記事にも書かれている。

アメリカなら20年前には処理されていた問題だろう。しかし、関係者がこの世からいなくなるまでは日本のマスコミは議論したくなかったということである。

これらを読んで想起されるのは、森進一の「襟裳岬」と中島みゆきの「永遠の嘘をついてくれ」という詩である。

襟裳岬ではコーヒーを飲みながら「黙りとおした年月を温め」るのだが、中島みゆきのは酒で「酔いつぶれながら」嘘を信じようとしている。

私も酒を飲んだ翌日はコーヒーをたくさん飲むことにしている典型的な日本人であるが、批判だけ繰り返す一部マスコミの保身はいつまで続くのだろうか。前向きの解決策提案が業界人ならいくつもあるのではないだろうか。

苦渋の関係者への支援も忘れてはならない。

野球やサッカーを生で視なくても良い理由2023年04月10日 12:16

 スポーツ中継ならなんでもそうだが、結果が分かってから見てもあまり面白くはない。生での緊張感を感じられないからだ。
 ただ、もうひとつだけ生で見たい理由がある。それは生だと自分が応援しているチーム、選手への祈りが通じた結果、勝利に貢献できるのではないかと思い込むことである。

 前者ならば、興奮できるので楽しいということになるが、世の中にはほかにも同じような緊張と興奮のアクティビティは多い。
 実は、後者の理由が生で見たいという真の理由であろう。

 しかし、ここで興ざめの話が出てくる。(誠に申し訳ない)
テレビ中継というものは時間遅れがある。真の生ではない。
それどころか、実は目に入ってくるものは全て過去のことなのである。光の速度は有限なので、目に入ったという時点ですでに過去のことを見ていることになる。真の生など存在しないのである。そこで祈って念を送っても時間遅れで選手には届いてしまう。なぜなら、念力であれ脳波であれ、光の速度を越えられるものは世の中には存在しない。即ち、応援という行為は、その現場でいても勝負の瞬間には意味がない行為である。

 だが、勝負の瞬間よりも一瞬前に状況を把握して声援を送ることは有効である。確かに、勝負の瞬間よりは一瞬早い時間での念によるものなのでピンボケになる可能性はあるが、ないよりは大分ましである。
 しかし、テレビの場合には生中継というのは錯覚である。どのくらい時間遅れがあるのかは放送関係者のみが分かることである。
 従って、本当に生に近い映像なのか、かなり遅れた映像なのかは視聴者には確認できない。それなら生で見る理由は無くなるはずではないか。

 このような興ざめのことを言うと視聴率が落ちるかもしれない。それでも、我々は錯覚の中に生きており、生放送は現在起こっていることだと信じて応援するのである。

 だが、冷静に考えれば、生で視なくてもひいきの選手を応援をし、念を事前に送ることはできるのである。前の晩に念を送っても、当日の真の生の一瞬前に送っても送ったという観点では同じことだからである。
 これこそが、大リーグ中継を早朝に起きてみる必要がない理由である。(今朝の寝坊の言い訳でした。)

なぜ田中碧の2点目は認められたか。2022年12月02日 07:04

 グループリーグ突破、おめでとうニッポン。

テレビの映像では、三苫のカバーしたときに、ボールはすでにゴールラインを越えたように見えた。従来ならば、ゴールキックになっていた場面である。

 そこで、サッカールールとVARの出番である。

「第9条 ボールインプレーおよびボールアウトオブプレー
1. ボールアウトオブプレー

ボールは、次のときにアウトオブプレーとなる。
・グラウンド上または空中で、ボールがゴールラインまたはタッチラインを完全に越えた。
・主審がプレーを停止した。
・ボールが審判員に触れ、競技のフィールド内にあり、次のようになった場合、
 ・チームが大きなチャンスとなる攻撃を始める。または、
 ・ボールが直接ゴールに入る。または、
 ・ボールを保持するチームが替わる。
こうしたすべてのケースでは、プレーは、ドロップボールによって再開される。」

 このルールにより、三苫が触れた瞬間、ボールは完全にはゴールラインを越えていないとVARにて判断されたのである。
 この数センチの差が天国と地獄の境界であった。

 実はこのルールは得点でのボールとゴールラインの関係との整合性にある。図に示すように、ゴールのためには完全にボールがゴールラインを越えなければならない。ーということは、完全にゴールラインを越えなければまだインプレイの状態にあるということである。(素人の解説でした。)

 これは、日本の勝利というよりもテクノロジーの勝利ともいえる試合であった。審判の目であればゴールキックになっていただろう。
 ヒトはそれでも進化しているという証明の一部である。

 ただし、FIFAにはこのVARシステムが第三者に侵入されて画像書き換えができないようデータを防護できるシステムの開発が要請されるであろう。これが日本ースペイン戦の技術上の教訓である。(年寄りの心配事)

甲子園の観測問題と量子論の観測問題2022年08月21日 06:01

 ここでいう甲子園の観測問題とは、高校野球全国大会における1塁側及び3塁側のカメラマン席の問題である。テレビを見ていると時々映るが、これは春夏の甲子園でしか見たことがない。通常の内野席の前にファールグラウンドに張り出すように設けられたカメラマンのための特設席である。確かにこの位置はカメラマンが選手のファインプレーの瞬間をキャッチするのに最適な位置であろう。
 しかし、このカメラマン席とグラウンドの仕切りの高さは50㎝程度しかない。内野側から球を追って走っていくとこの仕切りは目に入らないので非常に危険である。選手がファールボールを追ってこの席に横倒しに飛び込むのを今大会でも数回見ている。
 ダグアウトなら選手や監督は肉眼で球を追っているので飛び込む選手を守ることができるが、カメラマンは職務上常にカメラを構えているので、選手を守る動作はできないし、そのような動きをしたカメラマンを見たことはない。大事故が起こる前に、この特設カメラマン席を危険のないように高野連など関係者は改修するなり、撤去するして、この甲子園での観測問題を解決すべきである。

 話は飛ぶが、そこに、量子論での観測問題が関係しているかもしれない。
 量子論での観測問題とは、電子などの微小粒子は本来、確率論的な挙動を示すが、観測装置を用いて粒子の位置を測定した瞬間に、その位置が確定することになる。これは観測という行為自体が微小粒子の挙動に影響を及ぼしたことになるという原理的な問題である。一般にはシュレディンガーの猫の問題として知られている今も未解決の問題である。例えば
https://atarimae.biz/archives/6734
最近では、微少粒子以外に、数メートルサイズのかなりマクロな世界でもこの観測問題は発生することが分かってきたようだ。
 この直感では理解困難な問題の解の一つに、観測しようという人間の意識自体が量子論で対象とするの粒子の確率的挙動に影響するという説がある。即ち、この問題は人間の意識の持ち方に依存するというわけである。
 また、話が金属バットによるファールボールのように飛ぶが、甲子園の観測問題を解決するには、高野連や朝日新聞、NHKなどの関係者の意識もまた改革されなければならないということに繋がるのである。信じてもらえなければ、シュレディンガーの猫問題をよく理解してもらいたい。

爆笑問題の哲学的!2022年07月01日 15:32

爆笑問題の深夜ラジオを聴いていたら太田光が哲学的!というギャグを流行らせようとしているが、田中によればイマイチはやってないのだとのこと。

そこで、例えば以下のような話はどうだろうか。


ラジオネーム:三ッ沢ボチボチ

今朝、墓地を歩いていたら、気が付いた。

墓石の配列は、横に一列に並んでいるか、背を向けて縦に並んでいるかのどちらかしかない。人間とは死してなお、互いに正面から向き合おうとはしない生き物である。

哲学的!

TBSラジオの方、上記はオリジナルで、ほかには一切投稿していません。ご自由にお使いください。できればお盆のころ。

テレビドラマと現実の事件の関係性2022年06月20日 12:59

 昨日午後のTV東京の刑事ものテレビドラマは、関西の都市で起こった集団中毒事件を想起させる筋立てだった。母親と真犯人との関係性も一部で言われていたものと似ているように思った。
 しかし、現実は、冤罪事件ともいわれ、事件で使われた毒物も関係学会では死刑囚の家のものとは異なると判断されているようだ。また、ドラマと異なり、関係家族もバラバラとなり、戻らない家族もいる。関係者の被害感情は大きいままだ。
 このような冤罪といわれる事件は日本では数多い。それが米国が日米安保条約で、犯罪を犯した米軍人の裁判権は米側にあるとする地位協定を日本だけに要求し、同じような条約があるドイツには要求しなかった要因ともいわれている。
 このようなドラマは、見ていて苦しいものだが、関係者はなおさらであろう。しかし、無関係なものにも、このような冤罪事件の存在を思い出させるとともに、日米安保条約の見直しさえも考えさせてくれる貴重なものであると評価できる。
 できれば、警察関係者、法曹関係者にもこのドラマを鑑賞してもらい、冤罪事件を防止するための一助としてもらいたいものである。

コンテストの採点は3桁にすべきだ2021年10月04日 05:25

 キングオブコントの優勝者が空気階段に決まったそうだ。出場者が10組でその中で順位を付けなければならないのだから、審査員は大変だろう。
 その採点方法が100点満点だそうだ。
 出場者は長年コントを追求した強者ぞろいだから、審査員は最低でも90点は付けたくなる。そうすると10組出場したら採点で差をつける意味がない。即ち、100点から90点までの1点差をつけるだけなので、順位をつけるのと実質同じことになる。
 しかし、コントは順番に見ていくので数人前の出場者との順位を付けられるほど記憶力、判断力のよい審査員はいない。だから、採点法を採用しているのである。しかし、差をつけようにも1点である。

 ではどうすればよいか。それは、仮に100点満点の採点なら、
 90.5点というような3桁での採点を許すことである。

 そうすれば、芸達者な10組の出場者でも微妙な差を各審査員がその記憶力が普通でも、前の出場者との差を0.1点単位で判断できれば1点差で評価するよりも正しく10人の比較を点数に示すことができ、最終的な集計で精度良い順位付けができる。

 3桁に表示板を変更するのにそれほどコストはかからない。
 日本人皆が試験は100点満点と思い込み、どのコンテスト番組もどの試験も2桁の点数で評価されている。
 多数を採用する採用試験や入学試験ならばそれでもいいのかもしれない。
 また、多数の審査員(例えば日本人全員)による審査結果なら統計学的に意味があるかもしれない。
 しかし、多くのコンテストでは少数の審査員が点数を付けその集計により順位をつけることにならざるを得ない。
 公開の場で採点したときに、人情として90点が最低ラインだろう。無理に差をつけようとして、あまりに低い採点をしたら審査員の品格が疑われることになる。
 それを回避し、しかも順位をつけるためには、3桁で採点することである。100点満点で小数点以下1桁でも良いし、1000点満点としてもよい。
同じことである。

 昔、高校の文化祭で、張り絵のクラス別コンテストがあり、先生方が採点をした。殆どの先生はどの絵も90点以上を付けたが、一人だけ新任の倫理社会の先生が、クラスごとに大きな差をつけた採点をし、その先生の採点で実質順位が決まったことがあった。しかし、学内でその先生に文句を言う生徒はいなかった。逆にその先生の個性に人気が上がり、倫理社会を履修する生徒が増えたのである。

 しかし、そのようなユニークで勇気のある人間は、新任の倫理社会の先生のように大学でインド哲学でも探求するような日本人には珍しい特別な人である。

 もし、コンテストで人に順位を付けなければならないのであれば、審査員には3桁の採点を許容すべきである。
 
 最後に、キングオブコントに空気階段が選ばれたことにクレームをつけたいわけではない。十分面白いし、トップにふさわしい。
 ただ、審査員が採点に苦労するようなコンテストでは、出場者も余計な気をつかわなければならず、実力が十分発揮できず、最終的には関係者全員が不満をもつことになるのではないだろうか。
 なお、賞金の500万円をギャンブルに使うのだけはやめた方が身のためであると、あの倫理社会の先生が審査員ならば釘をさすであろう。