私小説2019年04月21日 09:26

1.日本初の大学紛争
(この小説はフィクションであり、実在の組織、人物とは関係がありません。)
昭和40年10月、U大原子力工学科の4階は閑散としていた。4階建てで長さ約80mの建物の中は、新任教授4人と学部学生約40人しか在籍していなかった。その前年、大学紛争の奔りともいうべき事態がこの学科には発生していた。10人の教授、助教授に対し、助手、大学院生がストライキを起こしたのである。そして、教授一人が自殺し、関係者はこの学科からすべてパージされた。
発端は未臨界実験装置という原子炉の実験装置のある不具合であった。当時、原子力は日本の将来のエネルギ源として現在の中国のように国中が開発に熱中していた。旧帝大を中心に原子力を専門とする学科が設立され、優秀な人材も集まってきていた。T大も優秀な教授連と優秀な助手、院生が揃っていた。優秀な人たちほど、その特性として批判的になるものである。
未臨界実験装置は燃料に天然ウランを用いて炉心特性を研究するものである。ウランがあるので外部から中性子が入射すれば核分裂反応は生じる。しかし、いわゆる臨界状態にはならない。臨界状態では、外部からの中性子の入射がなくても、一旦、核分裂反応が生じれば、この反応で発生した中性子が次の核分裂を起こして核分裂数が一定に維持される。この装置は中性子源がなければ核分裂反応は起こさない臨界に達しないように設計された、すなわち未臨界実験装置である。未臨界実験装置の核分裂数は入射する中性子の強度に比例するのであるが、この装置の発熱量は最大でも電球1個分にもならないものであった。ある程度の核分裂数がないと実験が行えないため、中性子を人工的に外部から供給できるよう、外部中性子源を用いる。この装置では、炉心下部に置いたアメリシウム‐ベリリウム中性子源を用いている。これはアメリシウムという放射性物質がアルファ線を出し、ベリリウム金属にあたって中性子を発生する反応を利用している。この中性子は継続的に発生するので、天然ウランに衝突することで継続的に核分裂反応が生じるわけである。この核分裂反応を止めるには、この中性子源を遠隔操作で炉心下部から遮蔽体の中に退避させればよい。
ここまではうまく装置は働いたのだが、炉心下部に設置してあった気泡発生装置に不具合が生じた。当時原子力発電所で主流になりつつあった沸騰水型原子炉(BolingWaterReactor,BWR)、すなわち、福島で用いられていた型の原子炉の炉心を模擬するための装置である。BWRは米国ジェネラル・エレクトリック(GE)が民生用に開発したもので、当時、米国で原子炉といえばウエスチングハウス(WH)が原子力潜水艦用に開発した加圧水型原子炉(PressurizedWaterReactor,PWR)であった。PWRは大きな圧力を掛けた水で、核分裂で発熱した燃料被覆管を冷却するもので、高圧なので水が沸騰しないというものである。しかし、発電するには蒸気タービンを利用するしかなかった。蒸気タービンは水蒸気を回転羽に当てて回転させ、タービンの軸につながった発電機を回転させて発電する方法であり、現在でも火力発電所、原子力発電所の多くはこの方式である。PWRでは原子炉で発生した高温高圧の水から水蒸気を得るために蒸気発生器を使っている。蒸気発生器はレンコンに似た構造の装置である。レンコンの穴に相当する部分には原子炉で発生した高温高圧の水を通し、薄い金属管で仕切られたレンコンの身に相当する部分に低温低圧の水を入れることでこの水を蒸気に変える。この蒸気はタービンを回したのち、海水で冷やされて水に戻り、蒸気発生器に再度供給される。
一方、BWRはGEがこの蒸気発生器を削除するために考え出したもので、原子炉の炉心で蒸気を発生させる。普通に考えればこちらがいいはずだが、水の沸騰というのはヤカンのお湯を見ればわかるが非常に不安定な事象である。これには2つの不安定な事象がある。一つは蒸発すると上部の水がなくなるので、圧力が下がり、急激に炉心に入る流量が増加する事象である。これがなぜ悪いかといえば、炉心の中の水が増えると、中性子が水の原子と衝突する回数が増え、エネルギが下がる。エネルギが下がった中性子がウランに衝突すると核分裂反応が起こりやすくなるという特性があるので、発熱量が急増する。そうすると今度は沸騰しやすくなり、水の量が減って今度は核分裂反応が少なくなる。この繰り返しに陥るのである。これは炉心全体が不安定になるということである。もう一つの事象は、流量配分にかかわるものである。実はBWRの炉心はチャンネルボックスという四角状の筒で50ピン程度の長さ4mのウラン燃料棒を包んだ燃料集合体を数百体格子状に配置したもので、この筒の中を下から上に水を流し途中で沸騰させるようにしている。なぜこのようにしているかといえば、炉心の場所によって、集合体の核分裂反応量すなわち出力が異なるからである。これはある割合で炉心で発生した中性子が炉心の外周に漏洩するため、中性子密度が場所により異なることが原因である。すなわち出力と流量の比率がほぼ同じになるように集合体ごとの流量配分を決めている。出力のより高い燃料には流量も多く流す必要がある。この場合、どこかの燃料で計算より多くの沸騰が発生するとその燃料の圧力が下がり、次の瞬間にはより多くの流量が流れ、他の集合体は少なくなる。そうすると今度は他の流量が減った燃料ではより多くの沸騰が発生することになる。この繰り返しで、集合体ごとの流量配分が増加したり減少したりの不安定現象を生じる。これらの問題を解決する方法を当時のGEの技術者は実験の末に見出した。すなわち、上部から圧力を掛ければよいのである。原子炉容器の上部に蒸気を充満させ、徐々に昇圧していく。どの程度まで圧力を掛けるのこれらの不安定性を抑えられるか実験した結果、PWRの半分程度、70気圧(7メガパスカル)あれば、ほぼ一様に沸騰し、極端に不安定になることはないことが分かったのである。
当時PWRとBWRが両者とも日本に導入され、建設が始まっていた。一般的な臨界実験装置には気泡発生装置はなく、燃料棒の周りは水であった。それに対し、特徴を出そうと、U大原子力工学会はBWRの炉心を模擬することに決めた。このために沸騰の模擬として、燃料集合体が装荷されている水プールの下部から水中に空気の気泡を流入させる装置を取り付けた。しかし、この気泡を一様に流入させることができなかったのである。水中の気泡というものは微妙なバランスで成立しているものである。ある気泡は合体して大きくなり、ある気泡は壁面について離れない。また、直径2m程度の炉心下部の空気室の内部圧力を一定にすること自体が簡単ではない。この装置はU大原子力工学科の目玉の装置であったので、この気泡発生装置の責任者は誰だということになった。そして、研究者内の思惑もあり大学紛争の奔りとなった。
教授が自殺するというあまりの紛争の激しさに大学本部が仲裁に乗り出し、喧嘩両成敗ですべての関係者がパージされてしまった。GHQのレッドパージはすでに過去のものとなっていたにも拘わらず喧嘩両成敗で事を収める伝統は大学内には残っていた。パージされたものはすべて他の大学や学科に移っていった。
しかし、文部省の予算は継続してついており、何も知らない新入生も毎年入ってくるので、この対処のためには新しい研究室を作らなければならない。ということで、国内のいろいろな研究機関や大学から、あるいは学内の他学部、学科から教授、助教授のリクルートが行われることとなり、新入生が学部に上がる前に4名の教授が集まってきたわけである。工学部は2年後半で教養部から選考する学科に移るが、4名の大学教授が原子力工学科に赴任したのは昭和40年10月のこの時期であった。パージされた教授の講座に所属していた学生もこの4名の教授の講座に配分されることとなった。

2.4人の新任教授
(この小説はフィクションであり、実在の組織、人物とは関係がありません。)
4人の教授だけで定員35人の学科が回せるものであろうか。まして、文部省の指示で日本の原子力の牽引車になるべく専門家を教育しようとしている学科である。原子力は宇宙開発などと同じくあらゆる工学を総合した最先端の技術と言われていた。そのため、核物理や原子炉物理は当然として、機械、電気、金属、化学だけでなく、建築、土木、資源まですべての学科の科目が教育カリキュラムに入っていた。その筋の専門家の4人では全く足りない。専門家だからこそ、ほかの分野は分からないのである。この状況は今も大学システムの大きな問題点である。中世には専門家といえども広い知識を持った知識人が多かったのである。例えばシーボルトである。
江戸末期、ドイツの医師であったシーボルトは、世界中の知識を得るために、オランダ商船に乗り、出島に来て医学の知識を教えただけでなく、日本人の知識人のネットワークを作り、日本各地から多くの植物を集めた。当時欧米にはなかったアジサイをオランダの植物園で栽培し、商才を生かして大もうけをした。しかし、医師として植物を収集した真の狙いは薬草の採取であった。当時の日本の医療では漢方由来の薬草学が本草学として確立しつつあった。一方、ヨーロッパにおいても医療の基本は投薬であり、薬草が重要な地位を占めていた。シーボルトはオランダに帰る際に幕府の禁制品であった日本地図を持ち出そうとしたことが発覚し、再入国禁止の処分を受け、シーボルトの協力者たちも流刑などの刑罰を受けた。これがシーボルト事件である。この裏には知識人間の嫉妬があった。間宮林蔵は当時幕府の役職にあったが、出島で蘭学の高等教育を受け、シーボルトに親しかった長崎の知識人とは競合関係にあった。知識人の一人が伊能地図の写しをシーボルトに渡したのを聞きつけ、幕府に密告したのである。シーボルトは別に政治的な意味や、まして軍事的な意味で地図が欲しかったわけでなく、全国の植物の配置を地図上に示したかっただけだった。日本は広く、各地で集めた植物はヨーロッパ以上に多様性に富んでいた。これを系統的に分類するには地図は必須と考えたのである。

シーボルトは来日した際、出島に出入りしていた日本女性お滝との間に子どもを設けた。日本初の女性西洋医楠本イネであり、その子は銀河鉄道999メーテルのモデルとなった悲しげな瞳の楠本高子である。高子は子ども時代はタカと称したが、明治以降、近代的な女性と見られたいために、自分の名前に子を付ける習慣があった。
シーボルトは、禁書持ち出しの罪で国外追放となった際、長崎の鳴滝塾で弟子であった医師二宮啓作にお滝とイネの世話を頼んだ。二宮はシーボルト事件に連座した罪で下放となり、故郷の愛媛宇和町に戻ったが、藩主伊達の支援も得て医師を続け、薬草も栽培した。二宮は、御山内(大念寺山)の借用許可を宇和島藩から得て大念寺その他に薬草園を開いて投薬として用い、近郷の医家にも分与したりしていた。栽培しているものには朝鮮人参・サフラン・オウレン・ハナスゲ・甘草などがある。そして、イネを宇和町に呼び寄せ医者として養育した。サフランを栽培したのはそのためである。サフランは経通薬として使用するが、猛毒でもあり、歴史上は堕胎薬としても有用であった。シーボルト事件の直前にイネは二宮の同門石井宗謙より暴行を受け、意にそぐわない妊娠をした結果、高子を生んだのである。シーボルトであれ、石井であれ、当時の男女関係は非対称なものであった。このような悲劇を無くそうと二宮はサフランの栽培にも力を入れた。
これらの薬草は現在も京都の武田薬草園で栽培され、市販薬ともなっている。二宮はタカを抱えて生きていかなければならないイネに医学や薬草の知識を教え、自立できるよう育てた。しかし、二宮でさえ寺社の土地を利用しなければ薬草園を開けなかった農業中心の時代に女性が薬草園を持てるはずはなく、二宮の死後、明治政府の医師資格制度採用の際にイネは産婦人科医をあきらめて、産婆となったのである。
Wikipediaによれば「医食同源」という言葉自体は中国の薬食同源思想から着想を得て、近年、日本で造語されたとのことである。真柳誠氏によれば、新宿クッキングアカデミー校長の新居裕久氏は、一九七二年のNHK『きょうの料理』九月号で中国の薬食同源を紹介するとき、薬では化学薬品と誤解されるので、薬を医に変え医食同源を造語したと述懐している。また、中国古代には食事治療専門医がいたという。『周礼』天官に定める医師四種の筆頭の食医がそれで、王の食事を調理するのに酸、苦、辛、鹹(カン、塩辛いの意)、甘の五味を重視する。食医に次ぐ疾医(内科医)にも「五味・五穀・五薬を以てその病を養う」とある。これに次ぐ瘍医(外科医)では「五毒を以てこれを攻め、五気を以てこれを養い、五薬を以てこれを療し、五味を以てこれを節す」で、やはり五味をいう。武田薬品によれば、二宮の薬草のうち、サフランはヨーロッパ南部原産と考えられている球根植物で、生薬「サフラン」は本種の柱頭で、クロシンなどの成分を含み、鎮静、鎮痛、通経などの作用がある。一般用漢方製剤には配合されていないが。主に更年期障害、月経困難などの改善を期待して婦人薬などに配合されているとのことなので、イネはこれを二宮から貰って使っていたのではないかと推測される。因みに、サフランの致死量は12-20gであるが、堕胎には10g程度必要とすると、1000本程度の花が必要になる。(http://phytochemical-dictionary.com/saffron/)これは本格的な庭園が必要となり、イネ単独で栽培するのは難しかった。

シーボルトとその弟子のように当時は専門教育を受けること自体が一般には困難で、その結果、専門家も少なく、自分の専門に関連することは何でも自分でやらざるを得なかった。しかし、昭和の後期ともなると、大学教育は一般化しつつあり、その中で専門家になるには何でも自分でやるよりは出来ないことは他人に任せることが賢いやり方となってきた。未臨界実験装置の気泡発生装置は誰が設計したのであろうか。原子核工学科に集められた人材はその名の通り、原子核物理や、原子炉物理の専門家がほとんどで、機械設計に詳しい人間は限られていた。その結果、気泡発生装置という一見簡単そうだが実はGEですら安定性達成のために数年の開発期間を掛けたBWR模擬装置はうまく働かなかった。すなわち、初期のBWR装置と同様、大気圧下での気泡の安定性を達成できなかったため、この未臨界実験装置の目玉であるBWR炉心の模擬ができなかった。改良のためには未臨界実験装置全体を圧力容器に入れ、BWRと同様、水プールの上部の空気圧を数十気圧にすればいいのだが、それには数十気圧の圧力に耐えるだけの新たな容器が必要となった。これは厚さ10㎝、直径3m、高さ5㎜程度の鋼鉄製の容器であり、安全性も考えると数千万では製造できない巨額な投資が必要となり、大学もあきらめたのである。それが責任問題の追及と日本初の大学紛争に直結したのである。

原子力、特にBWR、PWRで代表される軽水炉技術は米国からの導入技術である。太平洋戦争が現在の北朝鮮と同様、米国等の経済制裁による日本の石油禁輸措置を名目に日本が起こした歴史もあることから、エネルギ資源を自前で整備すること、そのためには原子力の利用がもっとも有効であることから、原子力基本法や日本原子力研究所(原研)が設立された。当時、原研は大学と同様、共産党の活動が活発で、産業界、政府との連携もうまくいっていなかった。研究者は理想を追求するというが、やはり、経済性との両立の視点が少なかったのであろう。現在の核融合炉開発もノーベル賞学者のK先生が言われるとおりである。原研は当時半均質炉という世界に例のない原子炉を開発していた。しかし、その実用化には多くの資金と時間が必要であり、電力関係者はそれを待つ余裕はなかった。その結果、電力は、米国製の原子炉を導入することにしたのである。T電力はGEの開発したBWRを、K電力はウエスチングハウス(WH)が開発したPWRを導入することとし、GEと提携していたT社、H社がBWR建設を、WHと提携していたM社がPWR建設を支援することになった。
しかし、このような導入技術には大きな問題がある。すなわち、風土の差である。最新の巨大技術でも地球環境の影響は受けざるを得ない。発電用原子炉は米国で生まれたが、その設計条件は米国での環境条件をベースにしている。実は世界初の発電用原子炉はアイダホ州にある米国立研究所ANL(現INL)のEBR-Ⅰという原子炉である。これは実は水を冷却材とする軽水炉ではなく、本小説の主題である液体金属を冷却材とする高速炉なのである。軽水炉とは普通の水のことである。カナダの原子炉は重水炉という重陽子(水素原子核が通常の水素(陽子一個からできている)に対し陽子1個と中性子1個が結合している)でできた重水で冷却している。但し、この場合の問題は冷却材ではなく、原子炉が止まった後の電力供給装置の問題である。原子炉も通常の機械装置と同じく、電力が常に必要である。原子炉が運転しているときは自分の発電する電力の一部を使えばいいのだが、核分裂反応が停止したのちも、核分裂生成物の崩壊を徐熱しないと炉心が溶融してしまう。従って、常に電力を供給しなければならないがこれが失われたのが福島事故である。EBR-Ⅰはアイダホの砂漠のど真ん中に建設されたので、技術者が一番気になったのは竜巻であった。そのため、この崩壊熱を除去するための非常用発電設備を竜巻から守るために地下に配置する設計を採ったのである。非常用発電設備というのは簡単に言えばディーゼルエンジンで発電機を回すものであるが、数メートルはある非常に大きな装置で簡単に動かすことはできない。GEはBWRの炉心は開発できたが、発電プラントとしては非常用発電設備をどこに配置するかを決めなければならなかった。その時に前例に倣って地下に配置したのである。福島の事故では津波により地下室が海水に浸かったままとなり、崩壊熱を除去できなかったがその原因がここにあったのである。T社の技術者はこの津波問題を気にしていたが、GEの技術者に配置変更を打診したところ、配置変更をするならば日本には売れないと言われたそうである。確かに、巨大なプラントのどこかを設計変更するには単に経済的な問題以外にも安全性や耐震性など大きな設計見直しが必要となり、簡単なものではない。福島事故の後、中国大連で開かれたエネルギ開発に関する国際学会でこのよう問題が日本側参加者から指摘されたとき、米国からの参加者は非常用発電装置は重量が重いので、建屋の上部に配置すれば耐震性が問題になると反論した。その時、南米から参加していた技術者より、自然災害に対応するためのプラント設計上の考慮点に対する質問が日本からの参加者にあったのだが、プラント内だけでなく、プラント外の条件、例えば、外部からの電源系統の確保、道路の確保などとともに、各国の個別の環境条件を考慮して設計すべきだとの回答がなされたのはこういう背景があった。
米国の高速炉は実は他にも軽水炉の大事故に関連している。すなわち、1986年のチェルノブイリ事故である。チェルノブイリ事故では公式には低出力運転で許容されていなかった制御棒を挿入したために、制御棒構造と炉心特性の組み合わせに問題があったために、核分裂反応が異常に増大し核爆発に近い状態になったことになっている。しかし、なぜそのような運転をしたのかが問題である。
実はその数年前にEBR-Ⅰの後継機であるEBR-Ⅱで特殊な実験が行われそれが大成功となったことがチェルノブイリ事故の遠因となった。その実験とはULOF実験と言われるものである。Unprotected Loss Of Flowの略であるが、Unprotectedとは制御棒を挿入しないという意味である。Loss Of Flowとは冷却材を喪失するという意味である。EBR-Ⅱの実験メンバーは当時問題になっていた安全性の実証実験として、EBR-Ⅱの冷却材ポンプを停止し、通常なら制御棒が同時に挿入されるわけであるが、その操作を行わずにどんな挙動をするかを、綿密な安全解析ののちに実施したのである。その結果、原子炉は一度温度が上昇したが、核分裂が停止し、燃料溶融をすることなく安定して炉停止状態に移行したのである。このメカニズムを簡単に説明すると、炉心が核分裂反応を減少するには原子炉から中性子漏洩を増大させることと、核分裂しない物質に中性子の吸収を増加させることが簡単である。EBR-Ⅱは酸化物ウランを用いる軽水炉(BWR、PWR、チェルノブイリ炉)と異なり、ウラン金属を燃料に用いている。そのため、熱膨張率が酸化物燃料より一桁大きいのである。熱膨張しやすいと中性子も漏れやすいというのは体積が増大すれば漏れにくくなるという直感と反するが、原子核と中性子の反応の場合、熱膨張は原子の間隔すなわち原子核同士の間隔が広がり、原子核自体の大きさは変わらないので、隙間が増大して中性子は炉心から漏れやすくなるのである。このため、金属燃料では核分裂率が大きく低下するが、酸化物燃料ではほとんど下がらないことになったのである。EBR-Ⅱではこのため、冷却材流量減少後に温度が上昇して核分裂反応が抑制されて炉の出力が下がり、燃料溶融に至らなかったが、チェルノブイリでは酸化物燃料のため、燃料温度が上がっても核分裂反応が抑制されず、炉の出力は下がらなかった。運転員は炉の出力が下がらないことに気づき、制御棒挿入操作をしたが、運悪く制御棒構造に問題があったため、爆発に至った。制御棒は名前から挿入することで核分裂反応度抑制する方向に働くと思われているが、必ずしもそうではない。核分裂反応の抑制には前述のように炉心からの中性子漏洩の増大と、核分裂性物質以外の物質による中性子吸収が効果的であるが、制御棒はホウ素など中性子吸収が大きい物質を内蔵していて、その吸収により核分裂反応を抑制する。しかし、炉心へあるものを挿入するということはその挿入口からの挿入前にあった中性子の漏洩量を減らすことになる。チェルノブイリでは制御棒の軸方向の物質配置が悪く、部分挿入時の制御棒をさらに挿入すると、中性子吸収よりも中性子漏洩の減少のほうが大きい構造となっていた。これはあらかじめわかっていたため、運転マニュアルでは急速に挿入することを禁じていた。ゆっくり挿入すれば冷却材温度が下がり密度が上がるのでその中性子吸収効果により核分裂反応は抑制されるのであるが、冷却材温度は急速に下げることはできないので制御棒の急速挿入により、核分裂連鎖反応が増大し、核爆発に近い即発臨界といわれる状況になったのである。実はこの現象は初めてのことではない。米国のある臨界実験装置で運転員が制御棒を故意に引き抜き自殺したといわれている事件があった。また、L大の実験用原子炉でも実験中に制御棒を急速挿入を行った際、炉の出力が研究員の予測に反して急上昇したのである。こちらのほうはチェルノブイリと同様の事象が起こりかけていたが、ウラン-238による燃料温度上昇時の中性子捕獲効果、即ちドップラ効果が効いて事故にはならなかった。この制御棒も構造上の問題があった。挿入前には制御棒が挿入される空間からの中性子の漏洩が多かったが、挿入途中ではその漏洩が抑制され、制御棒に含まれる中性子吸収体が有効に効く前に、吸収体の上下に配置されていた材料が減速材の効果があったために炉心の核分裂反応が増大したのである。
米国ではEBR-Ⅰのように民生用(軍事用に対し、発電炉などの民間利用の設備)としては、高速炉のほうが、BWRやPWRよりも先に開発されていた。その理由は、ウラン資源の枯渇を恐れたためである。石油と同じく当時の発電量を賄うとすると軽水炉では天然ウランの埋蔵量は100年も持たないと見積もられていた。天然ウランは二つの同位体(化学特性は同じだが、中性子との反応が異なる原子核を有する核種)からなる。ウラン-235とウラン-238である。ウラン-235は天然ウランの中の0.7パーセントしかないが、核分裂が容易に生じる。軽水炉ではウラン-235を4%程度に濃縮して使っている。広島型原爆はウラン-235が100%近いものであり、軍事用の濃縮技術が民生用に応用されている。軽水炉では殆どが陽子1個の水素が酸素と結合した軽水(即ち普通の水)が使われる。他に重水素という陽子と中性子が結びついた重水素からなる水が天然の水の中には0.015%含まれているが殆どの水は陽子1個だけの軽水素といわれるものである。この水素が中性子を吸収するため、ウラン燃料に吸収される中性子が減り、濃縮度が低いと核分裂連鎖反応が起こらなくなる。すなわち、核分裂が起こると平均2.5個の中性子が発生するが、連鎖反応状態ではそのうちの1個が次のウラン-235に吸収されて核分裂することになる。軽水炉では水に捕獲される中性子が多くなるため、天然ウランのようなウラン-235比率の小さいウランを燃料に使っても連鎖反応はできないので、広島型原爆で開発された濃縮技術でウラン-235比率を増大している。しかし、カナダでは豊富な水資源による多数の水力発電所があったため、電気を大量に用いる重水素の濃縮ができたので、重水のみを冷却材とする重水炉が開発できた。重水炉では天然ウランで核分裂連鎖反応が可能なので、天然ウラン資源も豊富なカナダではウラン濃縮よりも水濃縮のほうを採用したのである。
しかし、全世界的には天然ウランの資源量は限られている。濃縮をしてもウラン-235の絶対量は変わらないので資源量を増やすことにはならない。戦前から、核物理学者はウラン-238が中性子を吸収するとプルトニウム-239という同位体が生成することを知っていた。この同位体はウラン-235と同様に核分裂反応が生じやすい核種である。従って、核分裂で発生した複数の中性子を、核分裂連鎖反応を生じるウラン-235だけでなく、ウラン-238にも吸収させてあげられれば、核分裂による発電と同時に新たに核燃料が生成できることが分かっていた。そのためには中性子の収支を計算すると、冷却材を軽水から中性子吸収が小さいものに変える必要がある。そこで高速炉という発電プラントが開発された。高速炉は中性子の速度が軽水炉よりも早いという意味で高速炉と呼んでいる。高速炉の冷却材としては、液体金属(金属を高温にして溶融したもの)を用いる。初期のEBR-Ⅰでは、融点を150℃程度まで低下できる金属ナトリウムと金属カリウムの合金が用いられた。現在の高速炉では経済性を考え、塩から生成できる金属ナトリウムを溶融して用いている。これらの液体金属では殆ど中性子吸収がないことに加え、中性子が衝突しても速度が落ちない。核分裂で発生する中性子の速度は平均約1万キロメートル毎秒という高速である。これでもほとんどの中性子が原子炉から飛び出さないのは、炉心の中に10の24乗個レベルの大量の原子核があり、その原子核と衝突するためである。軽水炉では燃料から飛び出した中性子は、冷却材中で主に水素原子核と衝突する。中性子と水素原子核(陽子)はほぼ同じ重さなので、ビリヤードの白玉が赤玉に衝突した場合と同様、衝突により大きく減速する。十数回衝突した最終的な速度は平均約2キロメートル毎秒である。これ以上低速にならないのは、水が熱振動しているので、その振動により、中性子が運動エネルギを与えられ、完全に停止することはない。この熱振動と平衡状態になった中性子が、最終的に燃料や冷却材に吸収され、核分裂で新たな中性子を発生したり、捕獲されて消滅したりする。一方、高速炉では冷却材が金属原子核で水素原子核の23倍程度ある、中性子より非常に重い原子核である。側壁に衝突した白玉のようにほとんど速度が落ちない。従って、高速炉というわけである。高速の中性子はウラン-235に衝突した場合、核分裂はするが、捕獲反応という核分裂しないで吸収してしまう反応は起こらない。しかし、軽水炉の中性子で大きな比率を占める熱中性子は捕獲反応が核分裂反応の数十パーセント生じてしまう。その結果、ウラン-238に捕獲される中性子が減るため、プルトニウム-239の生成量も減ってしまう。一方、高速炉ではウラン-238に捕獲される中性子は減らない。核分裂連鎖反応が一定の臨界状態では連鎖反応に使われる中性子は常に1個だけでよく、核分裂で発生する中性子の6割は炉心の他の核種に捕獲される。すなわち、どの核種に捕獲されるかの配分だけが重要であり、高速炉ではウラン-238に捕獲される中性子割合が軽水炉の約2倍にできるので、ウラン-235の核分裂による消滅よりもプルトニウム‐239の生成量のほうが大きくできる。すなわち、核燃料が増殖できることとなり、天然ウランのほとんどを核燃料として利用できることになる。これが高速炉を優先的に開発した理由であった。
高速炉開発には単に原子炉物理による模擬計算だけでなく、研究レベルでは高速炉用の臨界実験装置も必要となる。