因果応報か神の思し召しか2021年01月16日 07:25

コロナ感染に対する各地の人の話を聞くと、日本人は仏陀の教えである因果応報を信じているようだ。感染のいう結果には原因があるはずだからその人が感染したのはその人に原因があると信じているのだろう。
一方、キリスト教では神の思し召しとよく聞く。すべては神様が決めるという運命論を深いところで欧米人?は信じているようだ。だから、感染した人へのいじめはないのではないか。差別はあるかもしれないが。

因果応報という考え方は決定論である。一方、神の思し召しという考えは確率論と親和性があるのではないだろうか。

仏教が多民族国家であるインドでは広がらず、東アジアのような単一民族国家で広がったのも因果応報という考えに関係しているのではないだろうか。皆似たような人なのに、良いひともいれば悪い人もいる。その差を説明するのに、因果応報は都合がよい。一方、欧州やインドなどの多民族国家では、見た目も性格も様々だから個人間の差をわざわざ個々人の努力や行いにその原因を求める必要はない。生まれや家柄、運命などどうしようもないこと、即ち神の思し召しですべてはきまる。その人がコロナに罹るのも罹らないのもすべては運命であるという確率論的考え方である。

現在、我々が自粛として努力しているのも罹らないためではなく、罹る確率を下げるためであるーというこの差を皆が認識できるよう政府もマスコミもSNSもアピールすべきだろう。

コロナいじめを防ぐには、或いは病者やハンディキャップ者への差別も確率論的考えが浸透すれば日本でも無くすことができるのではないかと感染者数のポアソン回帰分析を行いながら考えてしまう。

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