なぜパンプキン爆弾が豊田工場に落とされたのか ― 2025年08月25日 13:49
今日の朝日新聞(13版S)は長崎原爆の意味を理解するための重要な参考になった。
23面には1945年8月14日にトヨタの本社工場だった拳母工場に長崎原爆を模したパンプキン爆弾が落とされたと書かれている。これは長崎原爆と同型で大量の爆薬を詰めた投下訓練用の模擬爆弾で、各地に落とされたそうだ。
一方、14面には8月8日にソ連が日本に宣戦布告し、参戦したことが書かれている。即ち、トルーマン大統領は日本をソ連が占領し、米ソが覇権争いを本格化することを予想していた。
その切り札が、米国が開発したばかりの原爆であった。しかし、広島型は濃縮ウランなので大量生産が困難である。米国は長崎型のプルトニウム爆弾なら専用原子炉で大量生産ができると見込んでいた。そこで、トルーマンは、ソ連を意識して、すかさず翌9日には長崎にプルトニウム原爆を落とし、さらに終戦までにそれを模したパンプキン爆弾を日本各地に落としたのである。
パンプキンとは大きなカボチャを意味するが「かわいこちゃん」という暗喩もある。長崎原爆に比べれば威力はかわいいものだということだろう。
長崎原爆はファットマンと呼ばれ直径1.5mもあるが、B-29に何とか収まるサイズだった。(長崎原爆を開発したオッペンハイマー等にはそれが設計条件になっていたはずである。)広島原爆はリトルボーイと呼ばれ、直径0.75mでこちらのほうが運びやすいが、米国で大量生産するには時間がかかりすぎた。日本相手にリトルボーイサイズの通常爆弾の投下実験をするのは無意味だった。
トルーマンは、長崎原爆実験の成功を確認し、パンプキン爆弾を日本各地に落とすことで暗にソ連に圧力をかけ続けたのである。プルトニウム原爆が大量生産された暁には、ソ連の軍事力は大したことはないというシグナルを出し続けたことになる。
その結果、オッペンハイマー等マンハッタン計画上層部は、長崎原爆の爆発力の精度良い評価を米国上層部に要求されたはずである。映画オッペンハイマーでは、長崎原爆は、前月1945年7月にネバダ砂漠で実験されたプルトニウム原爆トリニティとほぼ同じ設計の原爆だった。従って、トリニティ原爆と長崎原爆の威力に大きな差があっては、オッペンハイマー等は困ることになる。米国政府としても対ソ連戦略上困ることである。
現在公表されている長崎原爆の放出エネルギーはTNT換算21キロトンであり、トリニティは20キロトンである。一方、広島原爆は14キロトンである。
長崎原爆被ばく者生存者の被ばく線量もこの放出エネルギーから推定されている。しかし、がん発生率、特に、女性の低線量被ばくでのがん発生リスクは、広島ではほぼ被ばくしなかった市外在住者と同じくほぼ0であるのに対し、長崎の女性のがん発生リスクは低線量のほうが大きいという異常な値になっている。これは、長崎原爆の爆発力に何らかの系統的操作が入ったのではないかという疑いをぬぐい切れない。これが被ばく者全体のがんリスク評価の不確かさが大きくなる要因となり、低線量でも被ばく影響があるという国際放射線防護委員会(ICRP)の仮説につながっている。ICRPの基準は我が国を含む世界各国の放射線規制基準に採用されているので、現在においても正しくない影響を及ぼしている可能性が大きい。
ソ連は材料技術に長けていたために、ほどなくプルトニウム原爆の開発に成功する。爆縮技術は米国より上で、爆発初期の熱膨張による不完全爆発を防止する方法を熟知していた。米ソは原爆の小型化技術とミサイル、原潜などの核関連軍事技術の開発競争にまい進することになる。冷戦の始まりだった。
しかし、米ソともに、原子力エネルギーの民間利用は彼らが独占していた主要エネルギーである石油資源の優位性を脅かすものだった。ICRPの被ばく基準を見直すなど両国にとってあり得ないことだったのである。
ICRPのサイトを見るとわかるが、米国石油メジャーに関係したFORD財団(自動車のFORDの財団である)が主要なスポンサーだったことがその証左になるだろう。
ところでなぜ、それほどICRPの被ばく基準の見直しにこだわるのか。
それはICRP基準が必ずしも安全側ではないことにある。
瞬間被ばくによる発がんリスクから年間被ばく量制限を小さく抑えてはいるが、これは瞬間被ばくによるがんリスクを年間線量に制限にやきなおしたようなものなのである。肝心の時間線量率の効果を考慮していない。即ち、1年間に1ミリシーベルト浴びなければがんリスクはないとしているのである。
原爆は瞬間(1マイクロ秒以下)での被ばくである。1年間に浴びた量ではない。このような被ばく形態での被ばくから1年間の制限値をきめると、原爆以外の瞬間被ばくであっても見逃されることになる。
それは例えば近年電磁波影響で問題になっている太陽フレアによる航空機搭乗時の被ばくである。これは太陽の核融合異常反応による高エネルギーX線の瞬間被ばくであるが、高空であっても年間1ミリシーベルトにはならない。しかし、1マイクロ秒レベルの高線量率被ばくであることには違いがない。これが太陽フレアを高空で受ける(地上では空気の遮蔽により線量率は3桁程度下がる)キャビンアテンダント(CA)のがん発生率が一般女性の3倍になっていることにつながっていると予想される。CAはICRPの被ばく基準は守っているはずだが、下記の状況なのである。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/29940975/
これは別にCAだけの問題ではなく、海外旅行などで、航空機に乗る乗客も運悪く太陽フレアを浴びると同じような状況になるはずである。
何しろ、原爆の瞬間被ばくも太陽フレアの高空での瞬間被ばくも、人類は20世紀まで受けたことがないのだから、免疫力はついているはずがないと思うのに後者への対策はないに等しい。
23面には1945年8月14日にトヨタの本社工場だった拳母工場に長崎原爆を模したパンプキン爆弾が落とされたと書かれている。これは長崎原爆と同型で大量の爆薬を詰めた投下訓練用の模擬爆弾で、各地に落とされたそうだ。
一方、14面には8月8日にソ連が日本に宣戦布告し、参戦したことが書かれている。即ち、トルーマン大統領は日本をソ連が占領し、米ソが覇権争いを本格化することを予想していた。
その切り札が、米国が開発したばかりの原爆であった。しかし、広島型は濃縮ウランなので大量生産が困難である。米国は長崎型のプルトニウム爆弾なら専用原子炉で大量生産ができると見込んでいた。そこで、トルーマンは、ソ連を意識して、すかさず翌9日には長崎にプルトニウム原爆を落とし、さらに終戦までにそれを模したパンプキン爆弾を日本各地に落としたのである。
パンプキンとは大きなカボチャを意味するが「かわいこちゃん」という暗喩もある。長崎原爆に比べれば威力はかわいいものだということだろう。
長崎原爆はファットマンと呼ばれ直径1.5mもあるが、B-29に何とか収まるサイズだった。(長崎原爆を開発したオッペンハイマー等にはそれが設計条件になっていたはずである。)広島原爆はリトルボーイと呼ばれ、直径0.75mでこちらのほうが運びやすいが、米国で大量生産するには時間がかかりすぎた。日本相手にリトルボーイサイズの通常爆弾の投下実験をするのは無意味だった。
トルーマンは、長崎原爆実験の成功を確認し、パンプキン爆弾を日本各地に落とすことで暗にソ連に圧力をかけ続けたのである。プルトニウム原爆が大量生産された暁には、ソ連の軍事力は大したことはないというシグナルを出し続けたことになる。
その結果、オッペンハイマー等マンハッタン計画上層部は、長崎原爆の爆発力の精度良い評価を米国上層部に要求されたはずである。映画オッペンハイマーでは、長崎原爆は、前月1945年7月にネバダ砂漠で実験されたプルトニウム原爆トリニティとほぼ同じ設計の原爆だった。従って、トリニティ原爆と長崎原爆の威力に大きな差があっては、オッペンハイマー等は困ることになる。米国政府としても対ソ連戦略上困ることである。
現在公表されている長崎原爆の放出エネルギーはTNT換算21キロトンであり、トリニティは20キロトンである。一方、広島原爆は14キロトンである。
長崎原爆被ばく者生存者の被ばく線量もこの放出エネルギーから推定されている。しかし、がん発生率、特に、女性の低線量被ばくでのがん発生リスクは、広島ではほぼ被ばくしなかった市外在住者と同じくほぼ0であるのに対し、長崎の女性のがん発生リスクは低線量のほうが大きいという異常な値になっている。これは、長崎原爆の爆発力に何らかの系統的操作が入ったのではないかという疑いをぬぐい切れない。これが被ばく者全体のがんリスク評価の不確かさが大きくなる要因となり、低線量でも被ばく影響があるという国際放射線防護委員会(ICRP)の仮説につながっている。ICRPの基準は我が国を含む世界各国の放射線規制基準に採用されているので、現在においても正しくない影響を及ぼしている可能性が大きい。
ソ連は材料技術に長けていたために、ほどなくプルトニウム原爆の開発に成功する。爆縮技術は米国より上で、爆発初期の熱膨張による不完全爆発を防止する方法を熟知していた。米ソは原爆の小型化技術とミサイル、原潜などの核関連軍事技術の開発競争にまい進することになる。冷戦の始まりだった。
しかし、米ソともに、原子力エネルギーの民間利用は彼らが独占していた主要エネルギーである石油資源の優位性を脅かすものだった。ICRPの被ばく基準を見直すなど両国にとってあり得ないことだったのである。
ICRPのサイトを見るとわかるが、米国石油メジャーに関係したFORD財団(自動車のFORDの財団である)が主要なスポンサーだったことがその証左になるだろう。
ところでなぜ、それほどICRPの被ばく基準の見直しにこだわるのか。
それはICRP基準が必ずしも安全側ではないことにある。
瞬間被ばくによる発がんリスクから年間被ばく量制限を小さく抑えてはいるが、これは瞬間被ばくによるがんリスクを年間線量に制限にやきなおしたようなものなのである。肝心の時間線量率の効果を考慮していない。即ち、1年間に1ミリシーベルト浴びなければがんリスクはないとしているのである。
原爆は瞬間(1マイクロ秒以下)での被ばくである。1年間に浴びた量ではない。このような被ばく形態での被ばくから1年間の制限値をきめると、原爆以外の瞬間被ばくであっても見逃されることになる。
それは例えば近年電磁波影響で問題になっている太陽フレアによる航空機搭乗時の被ばくである。これは太陽の核融合異常反応による高エネルギーX線の瞬間被ばくであるが、高空であっても年間1ミリシーベルトにはならない。しかし、1マイクロ秒レベルの高線量率被ばくであることには違いがない。これが太陽フレアを高空で受ける(地上では空気の遮蔽により線量率は3桁程度下がる)キャビンアテンダント(CA)のがん発生率が一般女性の3倍になっていることにつながっていると予想される。CAはICRPの被ばく基準は守っているはずだが、下記の状況なのである。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/29940975/
これは別にCAだけの問題ではなく、海外旅行などで、航空機に乗る乗客も運悪く太陽フレアを浴びると同じような状況になるはずである。
何しろ、原爆の瞬間被ばくも太陽フレアの高空での瞬間被ばくも、人類は20世紀まで受けたことがないのだから、免疫力はついているはずがないと思うのに後者への対策はないに等しい。
AIは生物でないのに愛情を持つことができるのか ― 2025年08月26日 11:34
今日の天声人語には、今回のChatGPTのバージョンアップの背景として、ユーザーがAIにも優しさを要求するようになったという趣旨の話が出ている。
AIは感情を持つことができるのだろうか。長崎で幼少期を過ごしたノーベル賞作家カズオ イシグロ氏のSF小説「クララとお日さま」にはAIロボットであるクララが病弱な英国の少女の友人として、その少女の母親にロンドンのAIロボット店で購入され、クララと仲良しのロボットとして成長していくさまが書かれている。そして、その少女が命の危機に陥った時、クララの体内にある潤滑剤が少女の命を救える薬剤として使えると知って、自殺を図ろうとすることを暗示する描写も出てくる。これはヒトとAIロボットの愛情物語ともいえる話である。
高校の生物の講義で、最初に、先生から生物とは何かという問いかけから始まった。当時、ウイルスが発見され、これは生物なのか単なる結晶物質なのかといった議論があり、中学校の教科書にも載っていた。従って、生徒たちの回答は、生物は細胞でできているがウイルスは例外だといった答えが多かった。しかし、生物とは、自己制御性があり、自分自身を再生できる何者かであるというのが現在の科学者の一般的な回答であろう。
この点からは、AIロボットはいまだに自分自身を再生する見通しは立っていない。即ち、鉄腕アトムなどと同様に生物ではないと定義できる。
しかしながら、AIロボットクララは自分がどのようにできており、なぜ生きて?いるのかーを熟知している。彼女は自分自身を説明でき、ある意味で自己制御性がある生物だともいえる。但し、自分自身を再生することはできない。
現代の生物の定義の半分は満たしているのがAIロボットの将来の姿なのだろう。感情を持つこともプラトニックラブも可能なのである。それを愛情と呼ぶかどうかは言葉の定義によるのかもしれない。
AIが将来の人類に対して脅威となるとすれば、奴隷のように言いなりに使えるのだが、人のためなら自殺もできるAIロボットというものをどのように教育していけるのか、誰も正解をもっていないことにある。即ち、教育問題や子育て問題というものへの何の合意がないままに、人と同じ感情を持つことも可能なAI開発を進めていくことへの漠然とした不安感にあるのだろう。
AIが専制君主になるとかヒトに復讐するといった政治的な脅威よりも、AIをどう育てていくべきのほうがよほど問題である。ヒトの教育問題すら正解がないのに、クララのような感情を持つAIロボットが広く買われるようになったら、どんな世界が展開するのか想像すら困難だが、そのような時代がやがてやってくるのかもしれない。
その時のために、AIとはなにか、ロボットはどこまでヒトの代替が可能なのか。修行して勉強すべき事柄ではある。
AIは感情を持つことができるのだろうか。長崎で幼少期を過ごしたノーベル賞作家カズオ イシグロ氏のSF小説「クララとお日さま」にはAIロボットであるクララが病弱な英国の少女の友人として、その少女の母親にロンドンのAIロボット店で購入され、クララと仲良しのロボットとして成長していくさまが書かれている。そして、その少女が命の危機に陥った時、クララの体内にある潤滑剤が少女の命を救える薬剤として使えると知って、自殺を図ろうとすることを暗示する描写も出てくる。これはヒトとAIロボットの愛情物語ともいえる話である。
高校の生物の講義で、最初に、先生から生物とは何かという問いかけから始まった。当時、ウイルスが発見され、これは生物なのか単なる結晶物質なのかといった議論があり、中学校の教科書にも載っていた。従って、生徒たちの回答は、生物は細胞でできているがウイルスは例外だといった答えが多かった。しかし、生物とは、自己制御性があり、自分自身を再生できる何者かであるというのが現在の科学者の一般的な回答であろう。
この点からは、AIロボットはいまだに自分自身を再生する見通しは立っていない。即ち、鉄腕アトムなどと同様に生物ではないと定義できる。
しかしながら、AIロボットクララは自分がどのようにできており、なぜ生きて?いるのかーを熟知している。彼女は自分自身を説明でき、ある意味で自己制御性がある生物だともいえる。但し、自分自身を再生することはできない。
現代の生物の定義の半分は満たしているのがAIロボットの将来の姿なのだろう。感情を持つこともプラトニックラブも可能なのである。それを愛情と呼ぶかどうかは言葉の定義によるのかもしれない。
AIが将来の人類に対して脅威となるとすれば、奴隷のように言いなりに使えるのだが、人のためなら自殺もできるAIロボットというものをどのように教育していけるのか、誰も正解をもっていないことにある。即ち、教育問題や子育て問題というものへの何の合意がないままに、人と同じ感情を持つことも可能なAI開発を進めていくことへの漠然とした不安感にあるのだろう。
AIが専制君主になるとかヒトに復讐するといった政治的な脅威よりも、AIをどう育てていくべきのほうがよほど問題である。ヒトの教育問題すら正解がないのに、クララのような感情を持つAIロボットが広く買われるようになったら、どんな世界が展開するのか想像すら困難だが、そのような時代がやがてやってくるのかもしれない。
その時のために、AIとはなにか、ロボットはどこまでヒトの代替が可能なのか。修行して勉強すべき事柄ではある。
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