実名報道と死刑制度の功罪2021年11月01日 05:18

 昨晩の京王線の傷害・放火事件の犯人は、2人殺して死刑になりたかったと話しているそうだが、その理由はなんだろうか。
 彼は単に死にたいのではなく、自殺できないので死刑になりたいのだろうか。彼のハロウィーンの悪魔の扮装での喫煙姿を見ると、本当の狙いは、自己承認欲求を満足させたいということだと思う。
即ち、メディアに晒されて、命をかけても自分の存在を世間に知ってもらいたいという自己承認欲求である。
 これは、暴走族など、社会に迷惑をかけて自分の存在を知ってもらうことと同様の心理だが、現代のように、ネットが一般的になると、個々の事件の詳細が簡単に一般人が知ることができるようになる。それならば、もっと大事件を起こせば、自分の名前も姿も世間に知らせることができるはずだーということで、このような事件を起こす価値が出てくる。

 これを防ぐには、まず、メディアが報道しないことである。しかし、それは、民主主義国家では認められない。ジャーナリズムの目的からも外れる。このような事件を起こしても自己承認欲求を満足させることには役立たないと思わせなけれなならない。
 この両者を同時に満たす唯一の方法は、実名報道をしない、そして、犯人の顔形がわかるような映像を映さないことである。すでに、そのような方法を採用している北欧の国もある。
 メディアは視聴率が下がっても、良い社会を作ろうとするならば自主規制をしてもらいたい。

 また、今回の事件で示されたもう一つの課題は、死刑制度との関係である。二人殺害すれば、国家により殺してもらえると考えたら、一種のヒロイズムを感じるものもいるであろう。
 いまの自分の不幸は、社会制度が悪いせいである、その根源は政府であり、国家であるーと考えれば、その国家に立ち向かうのは正義であり、その国家に殺されるのであれば本望であるーという心理に陥っても不思議ではない。
 死刑制度は犯罪を抑止するというよりも、このような理不尽な犯罪を誘発する可能性が高い。
 私怨による殺人は死刑制度の有無に関わらず起こると思う。犯人は異常な心理状態になっているからである。一方、このような自己承認型の犯罪はかなり意図的なものであり、異常な心理状態というよりも、健全な精神状態でも自己承認欲求が強い人は多い。それがなかなか満足できず、社会的にも不幸な状況だとこのような犯罪に走ることになる。死刑制度は見直さなければならない。少なくとも被害者の人数などで適用、不適用を決めるようなことがあってはならない。

なお、一部識者より、模倣犯を防ぐため、心理学者などを総動員して、死刑よりも更に厳しい刑を考えるべきだなどという意見が散見されるが、そのようなものを考えられるだろうか。すでに死刑制度ができてから数千年が経過し、体の一部を切断するような恐ろしい刑はこれまでに数多く考えられているが、ヒロイズムによるテロは全世界にまん延しているのである。

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