活動的隠居生活は可能か2025年04月01日 01:13

 活動的隠居生活という一見矛盾した生活が人生100年時代の理想の姿だろう。やはり、精神的に健康であるためには何らかの活動をすることが重要だと思う。身体的劣化の進行は精神的活動量に反比例するような気がする。

 連れ合いがそろそろ終の棲家を探したいという。そこで、湘南のとある集合住宅で程よいところを見つけてきた。見に行ったら確かに気持ちよく過ごせる静かな環境で、現在の騒々しい駅前のマンションとは全く違う。のんびりできそうな場所だ。一日何もせずに富士山や海を眺めていても違和感はない。

 問題はそんな生活に馴染めるかという昭和世代の心理的葛藤だ。何かやってないと落ち着かない。やることが無いと不安になる。この追い詰められ感の中で半世紀以上過ごすと、何もしない隠居生活ができるのか不安になって精神的に落ち込むのである。趣味に生きると言ってもそれだけでは何か面白くはない。気分転換にはなるがやはり意味があることをしてみたい。それが小さな一歩でも。これは人生の目的が何なのかという問題に深く結びついている。

 当面、知人から依頼されているとんでもなく難しい作業はあるが、これも一生をかけて(一生といってももうほとんどは過ぎてしまったようなものだが)やるような仕事なのか確信が持てない。

 こんな気になったのは、最近知人や同世代の有名人の相次ぐ逝去情報が影響しているのかもしれない。

 やはり、今までのように細かい研究作業の中で悪戦苦闘するのが性に合っているのかもしれない。表面的には生活の不安はないはずなので、好きなことを好きなペースでやるのが昭和世代の安定した生き方なのだろう。だいたい、世界中の混乱と苦難の国々の人々に比べれば、平均的な日本人は幸せな方だろう。この国は多くの災害を乗り越えてまあうまくやってきた方だろう。次世代のために、現在の方向性が勘違いしている可能性も大いにあるが、良かれと思ったことをコツコツ続けていくしかない。それが隠居生活の醍醐味だ。誰にも気兼ねなく好きなことをやるだけの開き直りと知恵はついているつもりだ。そのような自分がすきなことを比較的簡単にやれる環境になっているのは喜ばしいことだ。問題は世間の目というやつとリスクを過度に重視し攻めてくるマスコミリスクだろう。何もしないことが最大のリスクだとはよく言われることである。

 最近の自己満足は、エリーゼのためにを25小節まで弾けるようになったことだ。ベートーヴェンは特に早く弾けとは指示していないようなのでこれも指が動く程度の速度で引けば一応それらしく聞こえる(はずだ)。積年の英語ヒアリングも、発音時、ヒアリング時に舌に力を入れてシャドウイングすることでかなり聞き取れるようになった。日常会話への不安は消えつつある。体が硬く苦労していた靴を履く作業も、スケッチャーズのおかげで問題なくなった。靴底が出っ張っていて時々下り階段で転びかけていたスケッチャーズの問題も出っ張り部分を大型カッターで削り取ったら普通に歩けるようになった。

 隠居生活のコツは、漢字の示す意味とは異なり、好きなことをやって我が身を世間に晒してでも自由に暮らすことだと見つけたり。三浦雄一郎氏は父親の三浦雄三氏の歳までスキーができる様、不自由な体にめげず練習していたら体調が戻ってきたらしい。私も三浦雄三氏を目標に、世間の目を気にせず、マスコミのアウトドアアクティビティリスク論調にめげずに
、好きなことを好きなようにやるだけだ。