不連続連載小説 松尾大源(12) ― 2024年06月29日 04:43
白石を経ってから長崎までの道中は安泰だった。大源は長崎に着くと早速黒川市之丞、ソテロらと面談し、キリスト教布教の方策を相談した。
木場(木場)付近で、庵を開き、表向きは仏僧の姿をしながら、隠れキリシタンとしての活動を開始したのである。近辺にはすでに多くの隠れキリシタンがおり、布教活動が幕府の監視で大きく阻害されるようなことは少なかった。
ただ、伊達藩と長崎ではあまりにも距離があった。白石で青年に伝授した麺の製法が評判となり、それが政宗にも伝わったことを知ることもなく、大源は一生を終えた。墓は今も長崎の三ツ山教会のそばにあり、大源をルーツとする人々も居られる。
歴史上、伊達政宗の慶長遣欧使節団は、徳川幕府の成立とキリシタン禁令、鎖国政策により何の成果も得られないまま終わったと一般には見られている。
しかし、松尾大源は実際には、大きな地場産業を興し、また、キリスト教の布教活動により、現在の人々にも多くの経済的利益と心理的救済を与え続けているのである。大源がそれをどこまで期待し、予測していたのか、今では知る由もないが、現実の歴史が彼の願いを実現しているのであった。
木場(木場)付近で、庵を開き、表向きは仏僧の姿をしながら、隠れキリシタンとしての活動を開始したのである。近辺にはすでに多くの隠れキリシタンがおり、布教活動が幕府の監視で大きく阻害されるようなことは少なかった。
ただ、伊達藩と長崎ではあまりにも距離があった。白石で青年に伝授した麺の製法が評判となり、それが政宗にも伝わったことを知ることもなく、大源は一生を終えた。墓は今も長崎の三ツ山教会のそばにあり、大源をルーツとする人々も居られる。
歴史上、伊達政宗の慶長遣欧使節団は、徳川幕府の成立とキリシタン禁令、鎖国政策により何の成果も得られないまま終わったと一般には見られている。
しかし、松尾大源は実際には、大きな地場産業を興し、また、キリスト教の布教活動により、現在の人々にも多くの経済的利益と心理的救済を与え続けているのである。大源がそれをどこまで期待し、予測していたのか、今では知る由もないが、現実の歴史が彼の願いを実現しているのであった。
不連続連載小説 松尾大源(13) エピローグ ― 2024年06月29日 05:02
日本にとって悲惨な結果となった太平洋戦争の記憶も残る昭和28年夏、横谷松三は、老体ではあったが、貞山掘で船遊びをしていた。貞山掘りは、伊達政宗が仙台湾岸の水運を悪天時でも可能なように、石巻から亘理までの海岸線の内側、約50キロをつなぐために構築した運河である。今では、小型ボートも浮かべられない小堀になった個所も多いが、昭和中期にはまだ十分舟遊びが可能な幅10メートルはある堀だった。
松三は、白石温麺の工場長を大正初めに辞し、培った小麦の製粉知識をもとに、仙台の南部、長町において東北精麦という東北一円の小麦農家を対象にした精麦企業を設立した。当初は順調だったが、昭和5年(1930年)米国で起こった大恐慌の煽りを受け、破産に追い込まれた。なんとか会社の清算を終え、仙台の北部に借地を借りて、製麺所と酒屋を兼業することになった。子供達は成人していたので何とか家業を手伝うことができたのである。
そして、戦争が終わり、家業も安定し、年に数回、貞山掘りで昔好きだった舟遊びを子供や孫と楽しんでいた。
その時、船には松三が名付けて可愛がっていた孫の「つぎお」が乗っていた。船の周りには、息子たちが泳ぎながら船を引っ張っていた。松三は5人いた息子たちの名前を、長年生活した白石の城主片倉小十郎にちなみ、すべて下に(郎)と漢字を用いて、敏郎、秀郎・・と書いて、としお、ひでおと呼ばせていた。敏郎に孫の「つぎお」が生まれたときも、母親恒子に、次男だから「次郎」と書いて、「つぎお」と読ませるよう指示したのである。明治生まれの男だから、そのような指示は当たり前だった。しかし、時は昭和の新憲法が公布され、民主主義と男女平等の時代に移っていた。恒子は市役所に行く途中で、初めて舅の指示に反する決断をした。「次郎」ではだれもが、「じろう」と呼ぶだろう。そこで、出生届には「次男」と書いたのである。
そんな恒子の小さな反抗に最期まで気づかなかった松三は、船の上で、四歳になった孫「つぎお」に白石温麺の工場にいたころの昔話を始めた。工場の言い伝えでは、もともと、この運河の計画を立てた伊達政宗が海外に使節団を送った際に持ち帰った製麺の方法が生かされているというのである。「つぎお」は政宗や海外といった言葉はなんと理解できてはいた。ただ、松尾大源がその技術を持ち帰った当人だとは、最近まで気づかずにいたのである。
松三は、白石温麺の工場長を大正初めに辞し、培った小麦の製粉知識をもとに、仙台の南部、長町において東北精麦という東北一円の小麦農家を対象にした精麦企業を設立した。当初は順調だったが、昭和5年(1930年)米国で起こった大恐慌の煽りを受け、破産に追い込まれた。なんとか会社の清算を終え、仙台の北部に借地を借りて、製麺所と酒屋を兼業することになった。子供達は成人していたので何とか家業を手伝うことができたのである。
そして、戦争が終わり、家業も安定し、年に数回、貞山掘りで昔好きだった舟遊びを子供や孫と楽しんでいた。
その時、船には松三が名付けて可愛がっていた孫の「つぎお」が乗っていた。船の周りには、息子たちが泳ぎながら船を引っ張っていた。松三は5人いた息子たちの名前を、長年生活した白石の城主片倉小十郎にちなみ、すべて下に(郎)と漢字を用いて、敏郎、秀郎・・と書いて、としお、ひでおと呼ばせていた。敏郎に孫の「つぎお」が生まれたときも、母親恒子に、次男だから「次郎」と書いて、「つぎお」と読ませるよう指示したのである。明治生まれの男だから、そのような指示は当たり前だった。しかし、時は昭和の新憲法が公布され、民主主義と男女平等の時代に移っていた。恒子は市役所に行く途中で、初めて舅の指示に反する決断をした。「次郎」ではだれもが、「じろう」と呼ぶだろう。そこで、出生届には「次男」と書いたのである。
そんな恒子の小さな反抗に最期まで気づかなかった松三は、船の上で、四歳になった孫「つぎお」に白石温麺の工場にいたころの昔話を始めた。工場の言い伝えでは、もともと、この運河の計画を立てた伊達政宗が海外に使節団を送った際に持ち帰った製麺の方法が生かされているというのである。「つぎお」は政宗や海外といった言葉はなんと理解できてはいた。ただ、松尾大源がその技術を持ち帰った当人だとは、最近まで気づかずにいたのである。
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