天皇制は究極の親ガチャでは2024年09月12日 07:29

最近また皇室批判の記事が増えてきた。言論の自由は重要である。これは日本国憲法で保障されている。個人の職業選択の自由もそうだ。但し、皇族はそうではない。憲法で天皇制が定められている以上、それを担う個人が必要になるからだ。

この 現憲法にふくまれている究極の矛盾をどうするのか、これを無視して皇族への個人攻撃をするのはフェアではない。

現憲法では、主権在民、基本的人権の尊重という虚構は、皇族の人権を犠牲にして成立していると思う。昭和天皇の戦争責任があるとしても、国家(実施したのはGHQだが)に3000億と言われる資産を没収され、末代まで職業選択の自由を奪われたのである。

現天皇は、日本山岳会の会員だが、岩登りは自主規制しているようだ。私の経験からも、長年登山をしていれば、若者は岩や沢登りも挑戦したくなるものである。それを自主規制している。このような状況はある意味究極の親ガチャと言える。

これから逃れる方法は、皇族を離れることだが、女子皇族でもあれだけ騒がれた。男子なら、日本の歴史に関わる決断である。

言いたいことは、一部マスコミやSNSのように皇族批判するなら、日本国憲法のこの矛盾に対する考えを明確にしてからにすべきだという事である。

批判者は、日本の歴史に関わることに対し、若者が個人的に対応するという無理を押し付けているということに気が付かないのであろう。

私は平均的な日本人が共和制に耐えられるほど、成長しているとは思えない。即ち、日本が国家として成立するためには、天皇制が日本にはまだ必要だと思う。

この憲法上の矛盾を皇族は引き受けざるを得ない、ある意味で犠牲者とも言える。

現在では、皇族よりもはるかに良い生活をし、自由を謳歌している若者が何万人もいるし、それを皇族方も見聞きしている。

憲法改正が必要なのは、防衛問題よりも象徴天皇制という矛盾・虚構の方だろう。それを放置しながら、皇族批判をするのは、地球温暖化を放置しながら化石燃料による電気でエアコンを使っているのと同じく、矛盾を忘れ、自己満足しているようなものだ。

皇族方の人生に残された細かい選択まで批判するならば、その前に国民総意による象徴天皇制を廃止し、光源氏のような自由な生き方が出来ることに、法的にも、経済的にも、皇族方に保障できるよう努力するべきだ。