不連続連載小説 松尾大源(13) エピローグ2024年06月29日 05:02

 日本にとって悲惨な結果となった太平洋戦争の記憶も残る昭和28年夏、横谷松三は、老体ではあったが、貞山掘で船遊びをしていた。貞山掘りは、伊達政宗が仙台湾岸の水運を悪天時でも可能なように、石巻から亘理までの海岸線の内側、約50キロをつなぐために構築した運河である。今では、小型ボートも浮かべられない小堀になった個所も多いが、昭和中期にはまだ十分舟遊びが可能な幅10メートルはある堀だった。

 松三は、白石温麺の工場長を大正初めに辞し、培った小麦の製粉知識をもとに、仙台の南部、長町において東北精麦という東北一円の小麦農家を対象にした精麦企業を設立した。当初は順調だったが、昭和5年(1930年)米国で起こった大恐慌の煽りを受け、破産に追い込まれた。なんとか会社の清算を終え、仙台の北部に借地を借りて、製麺所と酒屋を兼業することになった。子供達は成人していたので何とか家業を手伝うことができたのである。

 そして、戦争が終わり、家業も安定し、年に数回、貞山掘りで昔好きだった舟遊びを子供や孫と楽しんでいた。

 その時、船には松三が名付けて可愛がっていた孫の「つぎお」が乗っていた。船の周りには、息子たちが泳ぎながら船を引っ張っていた。松三は5人いた息子たちの名前を、長年生活した白石の城主片倉小十郎にちなみ、すべて下に(郎)と漢字を用いて、敏郎、秀郎・・と書いて、としお、ひでおと呼ばせていた。敏郎に孫の「つぎお」が生まれたときも、母親恒子に、次男だから「次郎」と書いて、「つぎお」と読ませるよう指示したのである。明治生まれの男だから、そのような指示は当たり前だった。しかし、時は昭和の新憲法が公布され、民主主義と男女平等の時代に移っていた。恒子は市役所に行く途中で、初めて舅の指示に反する決断をした。「次郎」ではだれもが、「じろう」と呼ぶだろう。そこで、出生届には「次男」と書いたのである。

 そんな恒子の小さな反抗に最期まで気づかなかった松三は、船の上で、四歳になった孫「つぎお」に白石温麺の工場にいたころの昔話を始めた。工場の言い伝えでは、もともと、この運河の計画を立てた伊達政宗が海外に使節団を送った際に持ち帰った製麺の方法が生かされているというのである。「つぎお」は政宗や海外といった言葉はなんと理解できてはいた。ただ、松尾大源がその技術を持ち帰った当人だとは、最近まで気づかずにいたのである。

不連続連載小説 松尾大源(12)2024年06月29日 04:43

 白石を経ってから長崎までの道中は安泰だった。大源は長崎に着くと早速黒川市之丞、ソテロらと面談し、キリスト教布教の方策を相談した。
 木場(木場)付近で、庵を開き、表向きは仏僧の姿をしながら、隠れキリシタンとしての活動を開始したのである。近辺にはすでに多くの隠れキリシタンがおり、布教活動が幕府の監視で大きく阻害されるようなことは少なかった。

 ただ、伊達藩と長崎ではあまりにも距離があった。白石で青年に伝授した麺の製法が評判となり、それが政宗にも伝わったことを知ることもなく、大源は一生を終えた。墓は今も長崎の三ツ山教会のそばにあり、大源をルーツとする人々も居られる。

 歴史上、伊達政宗の慶長遣欧使節団は、徳川幕府の成立とキリシタン禁令、鎖国政策により何の成果も得られないまま終わったと一般には見られている。

 しかし、松尾大源は実際には、大きな地場産業を興し、また、キリスト教の布教活動により、現在の人々にも多くの経済的利益と心理的救済を与え続けているのである。大源がそれをどこまで期待し、予測していたのか、今では知る由もないが、現実の歴史が彼の願いを実現しているのであった。

不連続連載小説 松尾大源(11)2024年06月28日 17:00

 身分を隠す旅ならば当然ではあるが、大源は翌日、名前も告げずに奥州街道を南に旅立っていった。青年の製作した麺は大源の見聞きしたスパゲッティより更に細く、固かった。そして、型崩れせずに短く切ることもできた。簡単に茹でられしかも消化も良かった。青年の親は見る間に回復し、この麺は従来のそうめんに比べて美味しく、調理しやすく、消化にもよいと城下町で評判になっていった。城主小十郎はこの話を主君政宗にも伝えたのである。

 実は政宗の元にもソテロが長崎に戻った知らせは入っていた。その後、大源が 村田を密かに旅立ったことも聞いてはいたが黙認していたのである。政宗が派遣したのに帰ってきて幕府の命令で蟄居させたのだから当然である。

 政宗は小次郎からの知らせを聞き、彼が白石で遣欧使節団としての最後の仕事を成したことを察知したのである。
 そして、小十郎に白石の地産品として広めるよう指示したが、仙台藩一円にも白石温麺(ウーメン)という名で広めたのである。
 現在、仙台駅でも白石ウーメンを食することができるし、各地の百貨店、ネットでも購入ができるほどの人気商品になったのは政宗のこの罪滅ぼしともいえる動きのおかげである。
 
 政宗は実は大変情に厚い人物であり、弟を殺めたというのも戦国武将が天下のためなら身内も手に掛けるという常識に合わせた俗説だったことが現在では明らかになっている。
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6441

不連続連載小説 松尾大源(10)2024年06月27日 15:20

 村田に引き篭もってから一年が経った頃、長崎で別れた黒川市之丞からソテロが密入国したとの知らせが入った。常長は帰国以来、病いがちとなり、長旅はできそうになかった。
 大源は一人、僧の出立ちで長崎に向かうこととした。当時、侍が身分を隠して他国を旅するには、僧侶の恰好をするのが最も安全だった。彼がクリスチャンである事など、気にする必要もなかった。市之丞は長崎で隠れキリシタンとしての活動を密かに行っていたのである。

 村田から南に延びる田舎道は、白石の北、宮で奥州街道に交わる。ここは蔵王の刈田岳にある刈田嶺神社の下社があるので宮と呼ばれており、今も蔵王に登るための交通の要衝となっている。
 大源は奥州街道をさらに南下し、正宗の筆頭家老であった片倉小十郎の居城、白石の城下に入った。村田から六里(24キロ)を人目につかず歩くのは精神的にも疲れる旅であった。

 町外れで旅籠を探していると一人の青年が食べ物屋で困った顔をしている。話を聞くと、親が食事がとれないため、やせ細っていく一方だという。当時の庶民はコメよりは安い麺類を主食としていたが、一般的な素麺は、細く伸ばす際に切れないようにするために薄く食用油をまぶしていた。その脂分が高齢者には消化を妨げるものとなっていたのである。

 その晩、大源は、ローマの街角で習った、スパゲッティの油を使わない麺の伸ばし方を思い出していた。翌朝、青年の家を訪ねた。この青年にスパゲッティと同じように打った麺を捻りながら伸ばすことで、途中で切れないうえに細くできる麺の製造法を、詳しく伝授したのである。

(注1)スパゲッティが黄色いのは、油のよるものではなく、用いられる小麦自体の色に由来しています。


(注2)半導体基板の製造に関連した粘性液体の研究では、下記の沖縄科学技術大学院大学サイトに示されているように捻ることで粘性液体の切れを良くすることができるそうです。
 https://www.oist.jp/ja/news-center/news/2021/6/15/new-twist-break-viscoelastic-liquid-bridges

 しかし、打った麺のような高粘性材料では、伸ばす際に逆に捻りながら行うと切れにくくなることがあり、これは捻ることで細い材料内での応力集中を防ぐ効果が生じると考えられています。

 ChatGPTによれば、

「捻ったほうが切れやすい場合がある一方で、条件によっては捻ることで逆に切れにくくなる場合もあります。これは粘弾性液体の特性やひねりの条件によって異なります。

切れにくくなる可能性のある要因

粘弾性の高い液体: 粘弾性が高い液体は、ひねりによって内部の応力が吸収・分散されやすくなり、破断が遅れることがあります。
ひねりの速度: ひねりの速度が遅い場合、液体が変形に追随する時間があり、破断しにくくなることがあります。急速なひねりは逆に内部応力を急激に増加させるため、破断しやすくなります。
液体の粘度: 高粘度の液体は、ひねりに対してより抵抗するため、破断までに時間がかかることがあります。
ひねりの角度: ひねりの角度が一定の範囲内であれば、液体ブリッジが安定することがあります。角度が大きすぎると破断しやすくなりますが、小さい角度であれば切れにくいことがあります。

具体的なシナリオ

材料の分子構造: 例えば、高分子溶液のような液体では、分子の絡み合いやネットワーク構造がひねりによって解消されることなく、逆に安定化することがあります。
応力緩和: 粘弾性液体は、時間とともに応力を緩和する特性があります。ゆっくりとしたひねりでは応力が内部で緩和され、破断が遅れることがあります。

実験条件の影響

具体的な実験条件(温度、ひねりの速度、液体の粘度など)によって、ひねりが破断に与える影響は大きく変わります。そのため、ひねりが必ずしも液体ブリッジの破断を促進するとは限らず、場合によっては逆の効果を持つこともあるのです。

このような特性を理解することで、例えば、より強固な接着剤や特殊なコーティング材を開発する際の指針となります。」


ChatGPTの回答に示されるように、白石ウーメンの製造法方法は現代の半導体製造方法にも関係する特異な技術ともいえます。

不連続連載小説 松尾大源(9)2024年06月25日 08:54

 長崎から仙台までの一か月の道中も、常長らと一緒とはいえ、大源にとっては、針の筵の上を歩く厳しい旅だった。
 すでに、キリシタン禁令は全国に行きわたっており、彼らは幕府の役人の監視下、武士の命である刀を取り上げられ、目立たぬ服装で歩くしかなかったのである。

 まして、藩主正宗から指示があった西欧との貿易の目途はつかず、仙台に着いたらどんな沙汰が待っているのか、6年ぶりの日本の変わりように心は沈むばかりだった。

 常長はどんな気持ちでこの旅を見ているのだろうか。どのような処遇になるのだろうか。ソテロが日本に来ることはできるのだろうか。それよりも長崎で見聞きしたように、我々一行がキリシタン禁令に触れるとして仙台で火あぶりになったりすることはないのだろうか。

 伊達政宗は機を見るに敏な藩主である。家康が、日光に東照宮を作ると、仙台にも同じように町の東の端に東照宮を建て、北山には輪王寺まで建立し、日光と同じような城下町とすることで家康のご機嫌取りをした。

 本心はどうであれ、表立って幕府への反発はできないはずだ。数年前に反発する異母弟を討ち首にしたという政宗の噂は嘘で、実際には、多摩の五日町の旧庵へ出家させたということは聞いてはいた。

 我々は政宗の親戚ですらない。結果的に政宗の命を達成できなかったのだから、打ち首になっても仕方はなかった。

 だが、政宗はそれほど冷たい藩主ではなかった。仙台城に到着して彼らが受けた裁量は、故郷での蟄居だった。常長は仙台の西、蔵王の麓の川崎に、大源は川崎に隣接する村田に戻されたのである。

 蔵王と東側の丘陵に挟まれて盆地になった村田は冬は蔵王降ろしが冷たく、夏は仙台湾からの海風が届かないために多くの農民が日射病で倒れる厳しい気候だった。

 まだ、三十にもならない、若い大源は、滞在した欧州の事物の記憶を整理しながら、この村田からの脱出の機会を窺っていた。

不連続連載小説 松尾大源(7)2024年06月16日 18:10

大源は30名に及ぶ一行の中では最年少であった。そのためか、或いはソテロが特に可愛がったためか、スペイン語の習得は早く、地元民との意思疎通には問題がなかった。そして、スペインにとっての宗主国であるバチカンがあるローマの日常語も彼はマスターできたのであった。
 マドリッドに一行が到着して半年後の1615年夏にバチカンからのやっと謁見の許可が下りたとの連絡が入った。但し、人数は最小限にしてもらいたいとのことであった。バチカンとしては、東洋の小国の代表、それもキリスト教禁令の出ている国の派遣団と公式に会うことをできるだけ目立たせなくないとの意向があったのである。
 そのため、バチカンに向かったのは10名足らずであった。当然、大源も留め置かれるかと思われたが、彼には通訳ができるほどの語学力がついていたのである。若いということがここで生きたのである。

 しかし、バチカンに到着し、明日は法王に謁見できるという朝、謁見できる人数は7名にしてくれとの連絡が入り、大源は法王庁には行けなくなったのである。やはり若年者であるということがその理由になっていた。

 常長らが法王庁に向かった当日、大源は時間を持て余し、ローマの街を一人見物することとした。ソテロに教わっていたおかげで、意思疎通に不安はなかった。

 そして、ある街かどで、仙台では見慣れたはずの素麺作りをしている現場にであったのである。ただ、わずかに作り方が違っていた。素麺では小麦を長く伸ばす際に切れないように植物油を薄く塗るのである。それが仙台での作り方と異なっていた。話を聞くと、捻りながら打った麺を伸ばすことで植物油を使わずに細い麺を作ることができるそうである。それが現地ではスパゲッティと呼ばれているポピュラーな食べ物だった。ただ、その麺の色はやや黄色ががった見慣れないものだった。小麦の種類がことなるスパゲッティ専用の小麦だそうである。

 大源は政宗から西欧との交易のための知識を得てくるようにとの命も受けていた。この植物油を使用しない麺の作り方をマスターするために、その後、常長がローマを離れるまでにそのスパゲッティ工場に数回通い、実際にスパゲティの作り方を習得してしまったのである。

不連続連載小説 松尾大源(6)2024年05月16日 13:24

 メキシコ湾に出たとたん、暴風雨に見舞われ、再び、船底で必死に船酔いと戦う日々が続いた。
 大西洋の半年をかけた長旅に出た支倉常長一行のなかでも大源はひときわ若かった。しかし、その若さが退屈な長旅では裏目にでたのである。船酔いはメキシコ湾を過ぎ大西洋に入ると治まってはきたが、先の見えないこの旅の行方が心配になってきたのである。それは、大坂冬の陣への伊達政宗の参加の話や川幕府の権力が強化されつつあるとの知らせがスペイン海軍やソテロを通して入ってきていたためもあった。この旅の目的である、伊達藩の独自の海外との取引が、徳川方から圧力を受けることになるのではないかといったものである。

 ソテロの尽力でセルビアに上陸した常長は翌年正月にスペイン国王に謁見を許され、ソテロの意向もあって使節団一行はローマ法王を訪問する前に、マドリッドで洗礼を受けることになった。大源もすでにスペイン海軍やソテロとの交流の中で洗礼を受けることに違和感は無くなっていた。ただ、徳川幕府と政宗との力関係だけがこの旅の成否を決めるのではないかという漠然とした不安感を抱いていた。

 しかし、微妙なスペイン国王とバチカンの関係の中、なかなかローマ法王との謁見の予定が決まらず、半年もスペイン国内に足止めされていた。一行の中には当時のスペイン社会の進んだ開放感の中で、日本に戻ることをあきらめ現地に移住することを決意した参加者もでてきた。だが、大源は政宗を信じ、じっとローマへの旅立ちの日を静かにまっていたのである。

不連続連載小説 松尾大源(5)2024年04月13日 12:36

 常長ら遣欧使節一行は、アカプルコについてから半年後、陸路メキシコを横断する旅に発った。

 スペインが植民地支配するメキシコとはいえ、当時の征服者に統治を任せるスペイン政府システムは現地で様々なトラブルを起こしていた。大きな問題もなくメキシコ湾岸に到着できたのは、日本から持参した大量の金銀の力とソテロの交渉能力のおかげであった。

 常長一行は、多くの原住民が罹患した天然痘には誰も感染せずにメキシコを横断し、当時、世界を制覇していたスペイン艦船に乗ることができたのである。

 大源は使節団一行の中では若手ではあったが、ソテロの言いつけは固く守り、現地人とのトラブルもなくメキシコ湾岸のノビスバニアまでは順調な旅であった。

不連続連載小説 松尾大源(4)2024年02月23日 06:13

 大源の乗った船は、大型の帆船ではあったが、晩秋の太平洋に出ると揺れは大きかった。若い大源は2か月間、船酔いに悩まされ続け、それが不安感など消し飛ぶほどの苦しさを与えた。

 帆船であるがゆえに偏西風に沿った航海をせざるを得なかった。当時のスペインは世界国家であり、地球の丸さを知り尽くしていたが、帆船では大圏航路をとることはできず、北アメリカ大陸の西海岸にたどり着くまでは2か月間かかったのである。西海岸から南下し、当時も大都会だったアカプルコにつくまではさらに1か月を要した。しかし、その頃はすでに波は穏やかで、大源の体調は良くなっていった。

 アカプルコはスペイン人で満ち溢れていた。スペインの世界支配の最前線であり、スペイン人以外は奴隷扱いであった。しかし、常長一行は、ソテロの計らいで賓客として歓迎された。

 問題は、同行した約100人の町民たちであった。政宗の命で、交易の道を開くことが目的だったので、大量の日本特産品を船に積み込んでいた。アカプルコから先はメキシコ横断の陸路となる。当時、アカプルコからフィリピンへは、貿易風を利用したスペイン船の定期航路があった。  

 ソテロは、同行の海外取引を目的とした日本からの町人たちにここから、この航路を利用して、フィリピン経由で日本に戻るよう指示したのである。そのため、町人たちは、アカプルコで日本からの積み荷の売買をせざるを得なくなった。生糸、絹製品だけでなく、金、銀製品まで現地の商人に騙されてたたき売りする状態になったのである。スペインの商人はすでに中南米各地で、現地人から様々な収奪を行っていたのだから仕方のないことではあった。武士と異なり、町民たちは何の武器も持たず、この港で暗躍していた商人たちの餌食となったのである。

不連続連載小説 松尾大源(3)2024年02月16日 11:37

 同じ頃、政宗も伊達藩の統治について悩んでいた。家康とは関ケ原以来の支援と縁戚関係の強化で、信頼関係を結んでいたとはいえ、あとを継いだ秀忠との関係は弱く、頼りのソテロの希望だったキリスト教は禁令が出されることになった。
 政宗の目論見としては、キリスト教の布教を許容する代わりに、スペイン及び欧州各国と交易をおこない、伊達藩の隆盛を図ることではあったが、幕府がキリスト教禁令と鎖国政策を進めるのを止めるだけの力はなかった。
 伊達藩北部の金成などでは、多くの金山があり、伊達藩の対外貿易における資金力の元ともなっていた。しかし、その生産は地元の農家の手掘りや砂金の回収に頼っていた。
 漫画家石ノ森章太郎の出身地、石ノ森には、金を領主に大量に起草した農家が、金(コン)という名字を送られたとの話もある。作家井上ひさしは、宮城県北部の金資源をもとに、日本から独立を企てた吉里吉里国を想定してSF小説を書いている。
 しかし、そのような農民の乱掘のため、金の産出量も先細りとなっていった。大規模な鉱山開発技術に対する欧州からの技術導入も遣欧使節団の派遣の狙いでもあった。
 秀忠の時代に幕府が鎖国政策を進めた一因として、伊達藩の巨大化を抑える狙いがあったのである。政宗亡き後起こった伊達騒動の主役である伊達安芸も伊達兵部もこれら伊達藩北部の領主であった。幕府は伊達藩の内部分裂を煽って、弱体化するような陰謀を図っていたともいえる。
 政宗もまた、幕府の鎖国政策、キリスト禁令がどうなるか、伊達藩の行く末を決めるものとして心から心配していたのだった。