名誉を得るために生きるのか、名誉を守るために死ぬのか ― 2025年01月20日 06:54
ヒトは何のために生きるのか、永遠の謎である。
何しろ宇宙や生物がなぜ存在するのかが分からないのだから、ヒト、人が何のために生きているのかもわかるわけがない。
そこで仕方なく、ホモサピエンスは偶然手に入れた知能でその理由を探ることになった。その最も尤もらしい答えが、名誉である。確かに、名誉ある行いを積めば、死んだ後もその人の実績を讃えるのに使われるのであるから、生きる意味にはなるかもしれないが、名誉を残すために死ぬというのもなぜか虚しい。
最近の某県での自死の連続のニュースは虚しさを強く感じるものである。
やはり、ヒトが生きる最大の目的はヒトのためになることである。これは単に何かヒトのための仕事をするとか、意味ある仕事を残すという意味ではない。そのヒトが自分の生を生きつくしたかという経験値を人類に残すことこそ最大の目的であると思う。
その意味で、自死は必ずしもその目的にはそぐわない。キリスト教で自死を否定するのはこのような意味もあるのだろう。ヒトはヒトのために生きる。そのためには、あるヒトがどのような一生を過ごしたのかという経験を歴史の中に残すことである。この歴史の蓄積がヒトをヒトたらしめる最大の価値だと思う。
名誉などというものは誰かの価値観で決めたものであり、これまでもヒトの歴史の中では価値観の変動の中で、名誉だと思われていたことが不名誉に逆転した例は多々ある。決して名誉や名声などというものに左右される生き方はするべきではない。そのヒトらしく生きるのが限界も知られていない宇宙の中で必ず死ぬものとして生を受けたヒトとしての義務だろう。その義務をはたすのが最も重要なことなのである。自分でその義務を放棄する権利はないはずである。
何しろ宇宙や生物がなぜ存在するのかが分からないのだから、ヒト、人が何のために生きているのかもわかるわけがない。
そこで仕方なく、ホモサピエンスは偶然手に入れた知能でその理由を探ることになった。その最も尤もらしい答えが、名誉である。確かに、名誉ある行いを積めば、死んだ後もその人の実績を讃えるのに使われるのであるから、生きる意味にはなるかもしれないが、名誉を残すために死ぬというのもなぜか虚しい。
最近の某県での自死の連続のニュースは虚しさを強く感じるものである。
やはり、ヒトが生きる最大の目的はヒトのためになることである。これは単に何かヒトのための仕事をするとか、意味ある仕事を残すという意味ではない。そのヒトが自分の生を生きつくしたかという経験値を人類に残すことこそ最大の目的であると思う。
その意味で、自死は必ずしもその目的にはそぐわない。キリスト教で自死を否定するのはこのような意味もあるのだろう。ヒトはヒトのために生きる。そのためには、あるヒトがどのような一生を過ごしたのかという経験を歴史の中に残すことである。この歴史の蓄積がヒトをヒトたらしめる最大の価値だと思う。
名誉などというものは誰かの価値観で決めたものであり、これまでもヒトの歴史の中では価値観の変動の中で、名誉だと思われていたことが不名誉に逆転した例は多々ある。決して名誉や名声などというものに左右される生き方はするべきではない。そのヒトらしく生きるのが限界も知られていない宇宙の中で必ず死ぬものとして生を受けたヒトとしての義務だろう。その義務をはたすのが最も重要なことなのである。自分でその義務を放棄する権利はないはずである。
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