京アニと相模原の共通点2023年09月05日 19:33

社会的な関心を呼んだ大量殺人事件に関し、月刊創の篠田博之編集長のブログは分かりやすい。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/bdfa4cacfe3ef6193de819f11583b0f6d4dbf0b3
特に、相模原事件の死刑囚が社会との接点を求めてアニメにこだわるのは、京アニ事件の被告とかなり似ているように思う。

日本は形式的には言論の自由が認められている。社会に不満があれば、言論で戦うべきだろう。

事件の当事者はそこを短絡的に自分でしかやれない復讐の形をとることで、犯罪者になってしまたとも言える。

アニメの空間と現実空間との違いを十分には認識できないのは、現代社会の特性であろう。彼らはそこを十分認識しないまま、犯罪に走ってしまった。

心理的には社会や家族への大きな不満があったことは確かだろう。しかし、それを事故承認の形が欲しいからといえども、ほとんど責任のない一般市民の犠牲のもとでアピールするというのは、ある意味、プーチンがウクライナ国民の犠牲のもとに彼の主張を認めさせようとしていることにもつながる心理的な悲劇である。

このような悲劇は最近ますます増えているように思う。それは、確かに玉川氏のいう強権的社会での息苦しさからきている。

日本は言論の自由は保障されてはいるが、一市民が一人でデモをすることはできないし、世に警告を発することもできない。他の国も似たようなものかもしれないが、米国や仏国に比べれば、そのような自由度はかなり低いように思える。

即ち、このような事件を起こす前に、いかに彼らの意見に対する受け皿が少ないか、デモも主張も一人ではできないし、野党も、地域の団体も自分の不満を相手にしてはくれないと思わせるような状況が続いている。

警察は、このような人物は逆に取り締まりの対象としてしか見ない。
要するに不審者という扱いである。

ロンドンのトラファルガー広場には言いたいことを自由に言えるストリートピアノのようなお立ち台があったという。各地の警察もこのようなお立ち台を大都市の各区にひとつづつ作れば、悲惨な事件はだいぶ減るのではないだろうか。