プラセボ効果とノセボ効果の利用方法2024年02月06日 06:33

カリン・イエンセン著、中村冬美訳「予測脳 Placebo Effect 最新科学が教える期待効果の力」(日経BP)という本に詳しく説明されているが、いわゆるプラセボ効果の反対にノセボ効果というものもあるらしい。

 プラセボ効果は、有効成分の無い薬剤であっても、薬と認識していれば、心理的な効果で被験者の病気がが治ってしまう効果であるが、逆に、ノセボ効果は、薬を飲むことによるネガティブな効果のことであり、偽薬なのだが、いわゆる副作用が被験者に表れてしまう現象だそうだ。

 プラセボ効果はそれが偽薬だと被験者が分かっていても、心理的な効果で病気が治ることもあるということなので、かなり利用価値が高い。医者が信頼できている場合には、高価な薬を使わなくても投薬効果があるので、医療費削減には有効だという論文まで米国では出ているそうだ。

 上記の書籍によるとプラセボ効果は薬剤だけではなく、手術のような外科治療でも生じる。即ち、患部を正しく手術しなかったプラセボ手術場合でも、手術をしたことで、痛みが軽減するという魔訶不思議な現象が峰ミネソタ州のメイヨー・クリクックで現に観察されている。医師との信頼関係がそのような現象を生じさせるのだろう。

 そうなると、医師との信頼関係がない場合には、投薬されてもノセボ効果で本来の薬理効果が出ない場合もありうる。現在、飲んでいる薬があまり効いていていないと感じるが、その医者にちょっと信頼できない言動があったからなのではないだろうか。

 このような現象を拡大解釈すれば、医者の評判こそが最重要となる。その医療機関で受けた治療で治ったことが事実であるかは実はあまり問題ではない。その評判の良し悪しで、治りやすかったり治りにくかったりするということなのだ。まるで、美味しいという高価なワインのラベルが同じならば、中身が安物ワインでも美味しく感じるという効果が出るのと同じである。一歩間違えると似非科学の世界でもある。

 医食同源という言葉もある。このような現象は社会的、経済的に問題があるが、検討に値するだけの利用価値はある。

 同書によれば、これまで世界中で投薬された薬で最大のものはプラセボ薬だということである。即ち、薬剤の効果が客観的には証明されていない成分を持つ薬が多いということなのである。

 このプラセボ効果、ノセボ効果は単に医療関係だけではなく、スポーツでのパフォーマンス向上や受験合格率向上など社会的な事象にも利用されている。即ち、心理と身体能力の相互作用に関係する重要で未開拓な現象のようだ。法律や規則、倫理に触れない範囲で、信じることで好成績を達成できるという心理効果をうまく利用することには様々な価値がある。

 ただ、横断歩道での歩行者用プラセボボタンというものがあるそうだ。押したからと言って実際に歩行者用信号が早く青になったりはしないが、心理的には有効に働き、信号待ちでのイライラを抑えるそうだ。(これがヨーロッパの話であり、日本にはプラセボボタンがないことを願う。)

 この話を知ったので、桜木町近くの新横浜通りの歩行者用ボタンを押す気にはなれなくなった。(これはノセボ効果というのだろうか?所轄の見解を聞きたい。)

断続連載小説 松尾大源(1)2024年02月09日 10:37

1.梁川から白石へ

 横谷松三は、生まれ故郷の梁川からここ白石まで歩いてきて、母の親戚筋が経営する白石温麺(しろいしウーメン)の製麺所に住み込むことになった。20年前の廃藩置県で、梁川と白石は福島県と宮城県に分かれているが、元はと言えば同じ伊達政宗の領地ではあった。
 当時の日本の輸出品の最大のものは、絹製品であった。梁川にも多くの養蚕農家があり、松三の父親は地元の養蚕農家を回って、生糸を仕入れ横浜に出荷するという生糸商人をしていた。前年、小金持ちになったその父親が生糸の相場に手を出し失敗して、借金取りに追われる生活となってしまった。そして、一家離散という羽目に陥った。

 父親や兄たちは北海道の開拓地に渡ったが、小さい松三は母親と近くの親戚を頼ったのである。ここ白石は古くからの城下町で、人通りも多く、梁川に比べれば人目を気にしなくて済んだ。小学校を出たばかりの松三は母親と二人きりで寂しくはあったが、頑張ればなんとか食べて行けると感じたのである。

 この製麺所の言い伝えでは、白石温麺は、江戸時代の初め頃、土地の若者が、病気で胃腸の弱った母親のために食べやすい食品を探していたところ、通りがかりの旅の僧から、作り方を教えてもらってできたそうだ」。それが、地元で評判となり、藩主伊達正宗の支援も得て白石の特産品となっていった。
 現在でも白石温麺はお湯だけで簡単に調理ができ、消化もよいのでアウトドアでの食料としても人気がある、細くて手軽な乾麺である。

 松三は、遥か300年前の創業者の境遇が自分と似ているなと思いながら製麺の仕事に朝から晩まで没頭することとなった。それが、彼の浮き沈みの激しいの人生の始まりとなったのである。

運とは結局統計分布で決まるものだった!2024年02月11日 20:32

 よく行く蕎麦屋では食券販売機でいろいろなメニューを選べるようになっている。最近、好みのメニューが売り切れになることが多かった。これまでは大体食べられたのに、最近はいつも売り切れになっている。運がないのかなあーなどと思っていた。

 しかし、今日の昼に同じ店に行ったら、運よくそのメニューはあったのである。これは運が良かったとその瞬間は感じた。

 しかし、私がそれを選んだ直後に、店の人が食券販売機を開けて、そのメニューを販売終了としたのである。

 今日はいつもよりも単に10分ほど早くその店に行ったのである。これは、単にその時間帯でちょうどそのメニューが売り切れるように食材を準備しているに過ぎないということである。

 即ち、私がそのメニューにありつけたかどうかは運で決まったということではなく、その時間帯に来客のピークがあり、そのピークの前に店に来れたかどうかという、単純な統計分布で決まる問題だったということになる。その来客数の時間変化分布の知識がなかっただけのことである。
 それを運がなかったという言い訳をして、自分自身を納得させていただけに過ぎない。

不連続連載小説 松尾大源(2)2024年02月12日 14:12

 慶長18年(1613年)9月、松尾大源は石巻の月の浦で、帆船、サン・ファン・バウティスタ号の船上に佇んでいた。2年前の大津波で数千人が亡くなった仙台湾の海はあれていた。

 遣欧使節団を率いる支倉常長が親戚筋とはいえ、仙台藩から出たこともない若者が、何の知識もなく、言葉も知らない欧州に出かけるのである。帰ってくることができるのか、その時、日本はどうなっているのか想像もできない。常長は落ち着いた様子で船長のソテロと航路の話をしているのだが、大源は揺れる船に身を任せる以外、何もできなかった。

 ソテロはスペインから布教のために日本全国を回っていた。まだ、キリシタン禁令が出る前の時代である。江戸にいた政宗の妻の病気を治したのが切っ掛けで政宗と懇意になり、仙台にもしばしば来るようになった。そして、政宗のスペインとの交易やローマ法王との外交関係を結びたいという野望を知り、布教にも役立つと考え、懇意になっていった。ソテロは来日してからすぐに日本語をマスターするほど優秀だったのである。

 表面的ではあったが、政宗が大阪夏の陣で家康の信頼を得ていたこともあり、ソテロの指導で江戸から来た職人を使うことができた。そして、この大型帆船は2年ほどの短期間で完成した。

 当時伊達藩は宮城県北地方も藩下にあり、金成や石越などで多くの金が算出されていたので、経済的には問題がなかったのである。

 しかし、豊臣勢力の排除が終わったばかりの幕藩体制が、スペインなど外国勢力の圧力に耐えられるのか、その中で、欧州との直接的な外交関係が結べるのか、幕府にとっても、伊達藩にとっても難しい時代でもあった。すでに、フィリピンはスペインと植民地と化していたが、徳川幕府の思惑と政宗の野望との交錯するなか、松尾大源の不安が太平洋よりも深く感じられるのも仕方のないことであった。

春の足音が夏の襲来になる日2024年02月14日 06:49

 異常気象である。地球温暖化による日本での影響はすでに2月で20℃という高温状態を現実のものとしている。青森でも長野でもスキー場の閉鎖が続いている。スキー場だけなら関係者は少ないかもしれないが、積雪の減少は、春、夏、秋の貯水率の減少に直結する。要は食糧危機、電力危機でもある。

 テレビでキャスターが暖かいと喜んでいる場合ではない。花粉症の原因すら排気ガスから花粉にすり替えられている現状で、テレビを見ている我々の一億総白痴ぶりでは仕方ないのかもしれない。(昔の評論家がテレビの出現を称して一億総白痴と呼んだが、SNSでは100億総白痴とも呼べようか〇)

 この地球を救うには、鉄文化からの転換が重要である。

自動車、電車、工作機械はいずれもほとんどが鉄でできている。鉄の比重は約8であるが、アルミ(比重約3)で構成できれば、必要エネルギーは半分以下にできる。即ち、二酸化炭素排出量は半減する。そのためにはアルミの強度を上げられるレニウムとの合金化が研究されている。そこで、レニウムなど希少金属の確保が重要になるが、レアアースは地球に偏在している。これを大量に生産するため、タングステンの中性子照射でレニウムに変換する生成する方法がある。これらの新材料開発が地球温暖化を抑制するためのキーとなるかもしれない

調査研究費に多額の書籍代が含まれる謎2024年02月14日 20:38

 報道によれば、某派閥の首領の政治資金報告書に約3500万円の書籍代が含まれており、各マスコミのニュースショーではそれは出版社から同じ書籍を多数購入して関係者に配布したものだという解説になっている。それで、各局のコメンテーターは一応納得したように見える。

 しかし、この政治資金報告書の詳細リストを見ると
項目が調査研究費で、
その使用目的が書籍代
という不思議な構成になっている。

 常識的には調査研究で同じ書籍を何百冊も購入する必要はない。それが必要なのは、正に多数の関係者に配布するときだけであろう。
 調査するなら同じ本は1冊だけで済むはずである。
 
 ある人物が、身内のものの著作物である同じ本を数百冊購入するのは、広報、宣伝目的の時だけである。調査研究するなら1冊だけで充分である。また、自分の本なら調査研究自体が不要である。

 各番組のコメンテーターは、そのような単純なことまで分からなくなったのだろうか。調査研究費の中に、書籍代という目的で同じ書籍が何百冊も購入されていることが如何におかしいか、政治家と同様、言葉のプロであるならば、すぐに気が付くべきであろう。

 故大宅壮一が予言した通り、テレビ界では一億総白痴化という現象が実現してしまっているとしか思えない。

不連続連載小説 松尾大源(3)2024年02月16日 11:37

 同じ頃、政宗も伊達藩の統治について悩んでいた。家康とは関ケ原以来の支援と縁戚関係の強化で、信頼関係を結んでいたとはいえ、あとを継いだ秀忠との関係は弱く、頼りのソテロの希望だったキリスト教は禁令が出されることになった。
 政宗の目論見としては、キリスト教の布教を許容する代わりに、スペイン及び欧州各国と交易をおこない、伊達藩の隆盛を図ることではあったが、幕府がキリスト教禁令と鎖国政策を進めるのを止めるだけの力はなかった。
 伊達藩北部の金成などでは、多くの金山があり、伊達藩の対外貿易における資金力の元ともなっていた。しかし、その生産は地元の農家の手掘りや砂金の回収に頼っていた。
 漫画家石ノ森章太郎の出身地、石ノ森には、金を領主に大量に起草した農家が、金(コン)という名字を送られたとの話もある。作家井上ひさしは、宮城県北部の金資源をもとに、日本から独立を企てた吉里吉里国を想定してSF小説を書いている。
 しかし、そのような農民の乱掘のため、金の産出量も先細りとなっていった。大規模な鉱山開発技術に対する欧州からの技術導入も遣欧使節団の派遣の狙いでもあった。
 秀忠の時代に幕府が鎖国政策を進めた一因として、伊達藩の巨大化を抑える狙いがあったのである。政宗亡き後起こった伊達騒動の主役である伊達安芸も伊達兵部もこれら伊達藩北部の領主であった。幕府は伊達藩の内部分裂を煽って、弱体化するような陰謀を図っていたともいえる。
 政宗もまた、幕府の鎖国政策、キリスト禁令がどうなるか、伊達藩の行く末を決めるものとして心から心配していたのだった。

伊達政宗は弟を討たなかった!2024年02月21日 02:40

二つの伊達政宗関係の本がある。
(1)小林清治氏の人物叢書「伊達政宗」(吉川弘文館、1985年)
(2)佐藤憲一氏の歴史新書「素顔の伊達政宗」(洋泉社、2012年)

(1)の人物叢書では、江戸時代に伊達藩が公式記録としてまとめた貞山公治家記録の記述に沿って、政宗が弟の小次郎を手打ちしたことになっている。信長や信玄、謙信、家康などが身内を粛清したのと同様、戦国武将は身内すら敵になるという思い込みのストーリーに沿っている。それが戦国武将の武士道ということらしい。

しかし、(2)の歴史新書では、貞山公治家記録での不自然さに疑問を持ち、独自に調査して、政宗に反発した小次郎は、政宗と母義姫の計らいにより、出家し、その後武蔵五日市の大悲願寺で住職の法印秀雄になったのが事実だと記載されており、それを裏付ける寺の関係書簡まで明記している。
 
歴史認識とは時代により変わるということで、事件の後、1985年よりも2012年のほうが、より真実に近づくことができた例である。

身近なところでは、警察官の思い込みのストーリーで発生した冤罪事件が、その後のDNA鑑定技術などの科学技術の進歩により、捜査内容が覆されてより真実に近づくことになった例に似ていると言えよう。

これらは、歴史も、犯罪捜査も、分かりやすいストーリーにしたがった方が大衆受けはするのだろうが、真実は別のところにあったという話になる。

不連続連載小説 松尾大源(4)2024年02月23日 06:13

 大源の乗った船は、大型の帆船ではあったが、晩秋の太平洋に出ると揺れは大きかった。若い大源は2か月間、船酔いに悩まされ続け、それが不安感など消し飛ぶほどの苦しさを与えた。

 帆船であるがゆえに偏西風に沿った航海をせざるを得なかった。当時のスペインは世界国家であり、地球の丸さを知り尽くしていたが、帆船では大圏航路をとることはできず、北アメリカ大陸の西海岸にたどり着くまでは2か月間かかったのである。西海岸から南下し、当時も大都会だったアカプルコにつくまではさらに1か月を要した。しかし、その頃はすでに波は穏やかで、大源の体調は良くなっていった。

 アカプルコはスペイン人で満ち溢れていた。スペインの世界支配の最前線であり、スペイン人以外は奴隷扱いであった。しかし、常長一行は、ソテロの計らいで賓客として歓迎された。

 問題は、同行した約100人の町民たちであった。政宗の命で、交易の道を開くことが目的だったので、大量の日本特産品を船に積み込んでいた。アカプルコから先はメキシコ横断の陸路となる。当時、アカプルコからフィリピンへは、貿易風を利用したスペイン船の定期航路があった。  

 ソテロは、同行の海外取引を目的とした日本からの町人たちにここから、この航路を利用して、フィリピン経由で日本に戻るよう指示したのである。そのため、町人たちは、アカプルコで日本からの積み荷の売買をせざるを得なくなった。生糸、絹製品だけでなく、金、銀製品まで現地の商人に騙されてたたき売りする状態になったのである。スペインの商人はすでに中南米各地で、現地人から様々な収奪を行っていたのだから仕方のないことではあった。武士と異なり、町民たちは何の武器も持たず、この港で暗躍していた商人たちの餌食となったのである。