アフガン難民の受け入れについて ― 2021年09月13日 05:01
ベトナム戦争直後、数万のベトナム難民が海外に逃れた。その多くは米国である。戦争を開始した側であり、多くの難民は、米国が支援していた南ベトナム政府の統治下で安定した生活を送っていた都市住民だったから米国を頼るのは当然であろう。
当時、ある米国人から、日本が避難民を受け入れないのはずるいと非難されたことがある。日本は国土が狭く、人口密度が高くて、生活にも余裕はないので外国人を受け入れるのは難しいと反論しようと思った。それが当時の日本人のふつうの考えだった。日本政府も当時(今もそうだが)殆どベトナム難民を受け入れず、漂着した難民は米国に送っていて、米国政府から非難されることはなかったと記憶している。
今回も南ベトナム政府崩壊時と同じパターンで、米国支援政府の崩壊によるアフガン難民の発生である。歴史は繰り返さる。
ただ、今回、日本に逃れてきた難民を政府は受け入れるようである。
ベトナム戦争時と何が変わったのであろうか。
国内における外国労働者の数がけた違いに多くなっている。また、経済力も大幅に向上した。だから、100人レベルの外国人の受け入れなど問題にはならないということなのか。
だが、それは政府の受け入れ理由ではないであろう。
おそらく、国防予算を削減し、世界の警察官の役割を終えたい米国からの要請にそったものであろう。
カブールの大使館では日本人だけがいち早くカタールに避難し、現地協力者を置き去りにしようとしたとの非難が多くのメディアで報告されていた。だが、確かに、政府は、その時も現地協力者を受け入れようとはしていたのである。タリバンがカブールをあれほど早く奪還しなければ、500人程度の現地協力者を政府が受け入れようと動いたことは事実のようである。
ベトナム戦争当時よりもそれだけ日本には余裕ができ、米国は余裕がなくなったということである。
それなのに、なぜ、名古屋入管でのスリランカ人死亡のような事態が生じるのか。一部官僚の人権意識はベトナム戦争当時よりも後退しているのかもしれない。また、それは、ヘイトクライムに端的に現れるように、一部日本国民の外国人への意識変化を反映しているようにも思える。
当時、ある米国人から、日本が避難民を受け入れないのはずるいと非難されたことがある。日本は国土が狭く、人口密度が高くて、生活にも余裕はないので外国人を受け入れるのは難しいと反論しようと思った。それが当時の日本人のふつうの考えだった。日本政府も当時(今もそうだが)殆どベトナム難民を受け入れず、漂着した難民は米国に送っていて、米国政府から非難されることはなかったと記憶している。
今回も南ベトナム政府崩壊時と同じパターンで、米国支援政府の崩壊によるアフガン難民の発生である。歴史は繰り返さる。
ただ、今回、日本に逃れてきた難民を政府は受け入れるようである。
ベトナム戦争時と何が変わったのであろうか。
国内における外国労働者の数がけた違いに多くなっている。また、経済力も大幅に向上した。だから、100人レベルの外国人の受け入れなど問題にはならないということなのか。
だが、それは政府の受け入れ理由ではないであろう。
おそらく、国防予算を削減し、世界の警察官の役割を終えたい米国からの要請にそったものであろう。
カブールの大使館では日本人だけがいち早くカタールに避難し、現地協力者を置き去りにしようとしたとの非難が多くのメディアで報告されていた。だが、確かに、政府は、その時も現地協力者を受け入れようとはしていたのである。タリバンがカブールをあれほど早く奪還しなければ、500人程度の現地協力者を政府が受け入れようと動いたことは事実のようである。
ベトナム戦争当時よりもそれだけ日本には余裕ができ、米国は余裕がなくなったということである。
それなのに、なぜ、名古屋入管でのスリランカ人死亡のような事態が生じるのか。一部官僚の人権意識はベトナム戦争当時よりも後退しているのかもしれない。また、それは、ヘイトクライムに端的に現れるように、一部日本国民の外国人への意識変化を反映しているようにも思える。
ワクチンパスポートの私的宴会での運用について ― 2021年09月14日 05:08
政府は経済活性化のため、ワクチンパスポートを活用する方針のようだ。だれが新総裁になろうと、政権交代が起ころうとこの方向は世界的傾向だ。では、日本でワクチンパスポートというものは、世間ではうまく運用できるだろうか。陰性証明もパスポートに含まれるものとして考えてみる。
ルールというものは、前提として相互に信頼していること、参加者がそのルールを了解していることでなければ成立しない。
家族や親しい友人ならば、この前提は成立するだろうが、ちょっと疎遠な関係ならば、どのような事態になるだろうか。
例として、久しぶりの同窓会の開催というものを考えてみる。
参加者の予定は約50人である。
まず、会の案内状にワクチンパスポート、陰性証明が適用されるという文面をどう書くか、だれが、入国審査官役をするのかということになる。
これは、常識的には幹事役であろう。幹事役は信頼されているとみなされなければ、会は最初から成立しないはずだ。
次に、参加者が、だれが、ワクチン接種済みで、だれが陰性証明なのかを知りたいと言った時にどう幹事が回答するかである。
このルールはもともと政府による経済活性化が目的であり、厳密に感染防止を求めるものではない。しかし、50人も人間がいれば神経質な参加者もいるであろう。
従って、案内状には幹事のみがワクチンパスポート、陰性証明チェックを行い、幹事以外には知らせないと明示する必要がある。
従って、受付時の審査が他の参加者に見えないようにする必要もありそうだ。
次に、宴会で、ワクチンの話になった時に、だれかが、陰性証明だと分かった時に、会場にある種の差別的な挙動、言動が生まれる可能性である。これで会の雰囲気は一気に盛り下がる可能性がある。
従って、案内状や宴会前に、ワクチン接種の話は、宴会などではしないようにアナウンスすることも考えられる。しかし、新型コロナがほぼ全員の関心事なのだから、ワクチン接種の話ができなければ、それもかなり空々しい雰囲気になる。
これは、幹事の腕の見せ所で、予め、感染リスクはあること、陰性証明の参加者には、差別もありうることを案内状、宴会開始時にアナウンスすべきであろう。それが嫌であれば、参加を断ることになる。そのような制度を政府が推し進めるのであるから、参加者はその認識をあらかじめしておけば、トラブルは起こらないはずだ。
他に考えられる課題としては、会場までの道中で参加者同士が濃厚接触する場合である。例えば、マイカーに数人の参加者が同乗する場合が考えられる。この時点では幹事も参加者も、ワクチン接種の有無などの状況は分からない。
しかし、従来、マイカーに相乗りして宴会先まで旅行していたとする。
今回はどうするか。これもマイカーを運転する人、同乗する人に対し、事前のワクチンパスポートの確認はできないが、それを前提にマイカーを使うことを案内状に明示する以外にないだろう。
通常、このような宴会後には、数人ずつの部屋割りでの宿泊となる。
部屋割りでワクチン接種有無を問題にされると更に厄介な課題が生じる。部屋ごとに接種有無で分けることができるとは限らない。これも、案内状にあらかじめ書いておく必要がある。
これらのことを考えると、同窓会のような私的な集会にワクチンパスポート方策を適用すると参加者は激減する可能性もある。
それが同窓会や仲間の親密度のレベルの反映なのか、コロナへの恐怖心のレベルの反映なのかは分からないが、各自が判断すべきことであろう。
ただ、政府、自治体に対しては、私的な会合へのワクチンパスポート適用の際のこれらの課題に対する標準ガイダンスを提示してもらいたい。これらが明確でないと、クラスター騒ぎが起きたときに、陰性証明参加者や幹事が責められることになる可能性も多少ながらあるだろう。
ルールというものは、前提として相互に信頼していること、参加者がそのルールを了解していることでなければ成立しない。
家族や親しい友人ならば、この前提は成立するだろうが、ちょっと疎遠な関係ならば、どのような事態になるだろうか。
例として、久しぶりの同窓会の開催というものを考えてみる。
参加者の予定は約50人である。
まず、会の案内状にワクチンパスポート、陰性証明が適用されるという文面をどう書くか、だれが、入国審査官役をするのかということになる。
これは、常識的には幹事役であろう。幹事役は信頼されているとみなされなければ、会は最初から成立しないはずだ。
次に、参加者が、だれが、ワクチン接種済みで、だれが陰性証明なのかを知りたいと言った時にどう幹事が回答するかである。
このルールはもともと政府による経済活性化が目的であり、厳密に感染防止を求めるものではない。しかし、50人も人間がいれば神経質な参加者もいるであろう。
従って、案内状には幹事のみがワクチンパスポート、陰性証明チェックを行い、幹事以外には知らせないと明示する必要がある。
従って、受付時の審査が他の参加者に見えないようにする必要もありそうだ。
次に、宴会で、ワクチンの話になった時に、だれかが、陰性証明だと分かった時に、会場にある種の差別的な挙動、言動が生まれる可能性である。これで会の雰囲気は一気に盛り下がる可能性がある。
従って、案内状や宴会前に、ワクチン接種の話は、宴会などではしないようにアナウンスすることも考えられる。しかし、新型コロナがほぼ全員の関心事なのだから、ワクチン接種の話ができなければ、それもかなり空々しい雰囲気になる。
これは、幹事の腕の見せ所で、予め、感染リスクはあること、陰性証明の参加者には、差別もありうることを案内状、宴会開始時にアナウンスすべきであろう。それが嫌であれば、参加を断ることになる。そのような制度を政府が推し進めるのであるから、参加者はその認識をあらかじめしておけば、トラブルは起こらないはずだ。
他に考えられる課題としては、会場までの道中で参加者同士が濃厚接触する場合である。例えば、マイカーに数人の参加者が同乗する場合が考えられる。この時点では幹事も参加者も、ワクチン接種の有無などの状況は分からない。
しかし、従来、マイカーに相乗りして宴会先まで旅行していたとする。
今回はどうするか。これもマイカーを運転する人、同乗する人に対し、事前のワクチンパスポートの確認はできないが、それを前提にマイカーを使うことを案内状に明示する以外にないだろう。
通常、このような宴会後には、数人ずつの部屋割りでの宿泊となる。
部屋割りでワクチン接種有無を問題にされると更に厄介な課題が生じる。部屋ごとに接種有無で分けることができるとは限らない。これも、案内状にあらかじめ書いておく必要がある。
これらのことを考えると、同窓会のような私的な集会にワクチンパスポート方策を適用すると参加者は激減する可能性もある。
それが同窓会や仲間の親密度のレベルの反映なのか、コロナへの恐怖心のレベルの反映なのかは分からないが、各自が判断すべきことであろう。
ただ、政府、自治体に対しては、私的な会合へのワクチンパスポート適用の際のこれらの課題に対する標準ガイダンスを提示してもらいたい。これらが明確でないと、クラスター騒ぎが起きたときに、陰性証明参加者や幹事が責められることになる可能性も多少ながらあるだろう。
コロナ流行が波状になる理由(エビデンス無し) ― 2021年09月15日 07:11
第5波は収まったようである。
その理由について、専門家の見解は分かれている。
ここではエビデンスがない仮説を考えてみる。
多くの専門家はヒト側の行動変容に収束理由を求めている。
しかし、ウイルス側の都合も多少は考えてみたい。
ウイルスはヒト側に抗体が増加すると流行が収まる傾向がある。
ここで、ヒト側で感染したウイルスには、様々な変異が生じるはずである。しかし、多少の変異では、すでにヒト側の抗体により撃退され、流行は増加しない。
そこである程度時間がたつとヒト側の抗体に対抗できる変異ウイルスが発生する。
これがヒト側抗体に打ち勝つことができるので、次の流行の波が生じる。
その変異ウイルスは既に分かっているものが流入したものもあれば、明確に国内で変異ウイルスとして認知されていないものもある。
即ち、ある時点で多くのヒトが所有している抗体で一時的にウイルスを撃退できたとしても、新たなウイルス変異がステルス戦闘機のように開発され、そのウイルスによる侵略が開始される、即ち、次の流行が開始されるということになる。
分かりやすく例示すると、ヒトとウイルスの止めどない軍拡競争状態にある。これを収めるには、ヒトが強力な対抗力をもち、国民皆兵となるようなワクチン接種であろうが、それは、国民の基本的人権を侵すことになる。なかなか、難しい問題である。以上エビデンスが殆どない、仮説でした。
その理由について、専門家の見解は分かれている。
ここではエビデンスがない仮説を考えてみる。
多くの専門家はヒト側の行動変容に収束理由を求めている。
しかし、ウイルス側の都合も多少は考えてみたい。
ウイルスはヒト側に抗体が増加すると流行が収まる傾向がある。
ここで、ヒト側で感染したウイルスには、様々な変異が生じるはずである。しかし、多少の変異では、すでにヒト側の抗体により撃退され、流行は増加しない。
そこである程度時間がたつとヒト側の抗体に対抗できる変異ウイルスが発生する。
これがヒト側抗体に打ち勝つことができるので、次の流行の波が生じる。
その変異ウイルスは既に分かっているものが流入したものもあれば、明確に国内で変異ウイルスとして認知されていないものもある。
即ち、ある時点で多くのヒトが所有している抗体で一時的にウイルスを撃退できたとしても、新たなウイルス変異がステルス戦闘機のように開発され、そのウイルスによる侵略が開始される、即ち、次の流行が開始されるということになる。
分かりやすく例示すると、ヒトとウイルスの止めどない軍拡競争状態にある。これを収めるには、ヒトが強力な対抗力をもち、国民皆兵となるようなワクチン接種であろうが、それは、国民の基本的人権を侵すことになる。なかなか、難しい問題である。以上エビデンスが殆どない、仮説でした。
ワクチン忌避者と自由主義、全体主義 ― 2021年09月16日 08:54
ワクチンへの不安感から新型コロナウイルスの接種忌避者が身の回りにも1割程度はいる。自由主義者なら、これは個人の自由として尊重されなければならない。一方、社会防衛という観点からは、できるだけ感染者を減らし、安定的な社会を維持するために、ワクチンに頼らなければならないのが現状である。これは社会防衛を主眼とする全体主義的発想である。両者のどのへんでバランスをとるのか。この問題が当面の日本での最重要課題だろう。また、これはあまり政治的立場には拠らない、与野党ともにワクチン接種戦略を推進しようとしているように見える。
では、ワクチン忌避者をどう考えればいいのだろうか。
アレルギーなど身体的理由でワクチン接種ができない人々も少数ながら存在する。そのような人々と同様に対応することはできるだろうか。即ち、全体主義的行動に容易には参加できない人々である。先の世界大戦時に、徴兵されたが、身体検査で落とされた人々がいた。また、思想的な理由で兵役拒否した人々もいた。当時、どのようにこれらの人々が社会で扱われていたのかを考える。
身体的な理由で兵役に付けなかった人々は後方支援に回った。即ち、軍隊で言えば裏方作業である。同様に、コロナ禍で、ワクチンが接種できない人々の場合にはできるだけ対人接触を避けられるような仕事や環境で生活できるように支援することが考えられる。
思想的理由で兵役拒否した人に対しては、戦争中は、社会的罰則によって対応していた。しかし、基本的人権として公共の福祉に反しない限り個人の自由を認める新憲法下では思想的理由でワクチン拒否をする人々も守られなければならない。即ち、ワクチン拒否は公共の福祉に反するかという課題に帰着する。確かに、ワクチン接種率が上がるほど感染者や重症者が減るというデータを見れば、ワクチン拒否は公共の福祉に反するようにも見える。しかし、この場合のワクチン拒否者でも、公共の福祉に反しない方法がある。それは、行動の自由の制限を課すことで、ワクチン接種を容認している人々や子どもなど未接種者への感染可能性を避ける行動をしてもらうことである。
これは、社会的分断を進めることになるかもしれない。しかし、思想的な自由を認めるということは多少の社会的分断を認めるということであろう。
では、ワクチン忌避者をどう考えればいいのだろうか。
アレルギーなど身体的理由でワクチン接種ができない人々も少数ながら存在する。そのような人々と同様に対応することはできるだろうか。即ち、全体主義的行動に容易には参加できない人々である。先の世界大戦時に、徴兵されたが、身体検査で落とされた人々がいた。また、思想的な理由で兵役拒否した人々もいた。当時、どのようにこれらの人々が社会で扱われていたのかを考える。
身体的な理由で兵役に付けなかった人々は後方支援に回った。即ち、軍隊で言えば裏方作業である。同様に、コロナ禍で、ワクチンが接種できない人々の場合にはできるだけ対人接触を避けられるような仕事や環境で生活できるように支援することが考えられる。
思想的理由で兵役拒否した人に対しては、戦争中は、社会的罰則によって対応していた。しかし、基本的人権として公共の福祉に反しない限り個人の自由を認める新憲法下では思想的理由でワクチン拒否をする人々も守られなければならない。即ち、ワクチン拒否は公共の福祉に反するかという課題に帰着する。確かに、ワクチン接種率が上がるほど感染者や重症者が減るというデータを見れば、ワクチン拒否は公共の福祉に反するようにも見える。しかし、この場合のワクチン拒否者でも、公共の福祉に反しない方法がある。それは、行動の自由の制限を課すことで、ワクチン接種を容認している人々や子どもなど未接種者への感染可能性を避ける行動をしてもらうことである。
これは、社会的分断を進めることになるかもしれない。しかし、思想的な自由を認めるということは多少の社会的分断を認めるということであろう。
Zoom仮想背景の不具合修正法 ― 2021年09月17日 10:58
Zoom会議で、室内が映らないよう、パソコン内の写真を仮想背景として使う場合、パソコンのプロセッサ能力が不十分だと、仮想背景が部分的に欠け、室内の一部が映ってしまうことがある。
青い布を用いてもきれいな仮想背景にならなかった古いパソコンがある工夫で仮想背景が使えるようになった。
先日、知り合いとZoom会議のテストをしている最中にこの問題を解決する方法が分かった。
(Zoom以外の会議ソフトは試していないが、おそらく同じ対応が可能であろう。)
その方法は、簡単にいえば、服装を黒っぽいものとし、同時に室内は白っぽくすることである。
そのテスト会議では、仮想背景がきれいに映らない相手の画像をよく見ると、顔はきれいに映るが、来ている服の白い部分は胴体を透過して写真である仮想背景が見えており、また、室内におかれた黒い家具の部分は仮想背景が隠されて、家具が見えていることが分かった。このために画面全体が複雑な見え方になっているのである。
仮想画面では、カメラでとらえられた画像と、仮想背景に使う写真の2つの画像を組み合わせる際に、カメラ画像での人物と屋内背景の区別をプログラムにより処理しているので、人物と屋内の区別が単純な色合いであれば、プロセッサが非力でも区別がかのうなのであろう。
そこで、服装を黒っぽいものに着替えてもらい、同時に室内にある黒い家具などを白いシーツで覆ってもらったら、ほぼ、正常な仮想背景画面が映るようになった。
使用する写真の色合いなどにも依存するのかもしれないが、これは試してみる価値がある。
但し、白髪の方は頭部が空っぽになる可能性があるので、注意する櫃夜がある。一方、禿頭ではきちんと映るはずで。数少ない禿頭の効用の一つではある。
青い布を用いてもきれいな仮想背景にならなかった古いパソコンがある工夫で仮想背景が使えるようになった。
先日、知り合いとZoom会議のテストをしている最中にこの問題を解決する方法が分かった。
(Zoom以外の会議ソフトは試していないが、おそらく同じ対応が可能であろう。)
その方法は、簡単にいえば、服装を黒っぽいものとし、同時に室内は白っぽくすることである。
そのテスト会議では、仮想背景がきれいに映らない相手の画像をよく見ると、顔はきれいに映るが、来ている服の白い部分は胴体を透過して写真である仮想背景が見えており、また、室内におかれた黒い家具の部分は仮想背景が隠されて、家具が見えていることが分かった。このために画面全体が複雑な見え方になっているのである。
仮想画面では、カメラでとらえられた画像と、仮想背景に使う写真の2つの画像を組み合わせる際に、カメラ画像での人物と屋内背景の区別をプログラムにより処理しているので、人物と屋内の区別が単純な色合いであれば、プロセッサが非力でも区別がかのうなのであろう。
そこで、服装を黒っぽいものに着替えてもらい、同時に室内にある黒い家具などを白いシーツで覆ってもらったら、ほぼ、正常な仮想背景画面が映るようになった。
使用する写真の色合いなどにも依存するのかもしれないが、これは試してみる価値がある。
但し、白髪の方は頭部が空っぽになる可能性があるので、注意する櫃夜がある。一方、禿頭ではきちんと映るはずで。数少ない禿頭の効用の一つではある。
事故は高齢者のためか高年式車のためか ― 2021年09月19日 08:15
高齢者がプリウスなどで事故を起こしやすいとよく言われている。
しかし、よく考えると、車というものは平均10年程度は持つものである。特にトヨタ車など品質管理が進んでいるものでは買い替えや廃車の必要性があまりない。即ち、平均的に見れば、高齢者は、使用年数の長い高年式車を持っていると考えられる。
高年式車であれば、必然的に経年劣化が生じている。制御系であれば、ブレーキパッド部やスプリング部など材質の劣化が進んで新車とは微妙に応答が変わってくる。
先日、起動時のクリープ力に不具合を起こしたプリウスも、ブレーキペダルを離したときにスムーズなブレーキ力の減少ができなくなっていたように感じる。即ち、踏力による微妙なブレーキ制御が難しく、足を徐々に離しても、突然、ブレーキ力が無くなるような状態になっていたのである。
このようなブレーキ状態で、エンジン回転数が通常より高い状態でスタートしたうえに、立体駐車場でのスタートなので、やや下り坂になっている方向に車を発進させたため、平坦な場所よりクリープ力が強く働いて制御が困難になったと考えられる。
プリウスでは、一般のガソリンエンジンAT車のような流体クラッチは組み込まれていない。即ち、車輪に直結する流星歯車機構にエンジン力と電気モータ力が同時に入力される構造になっているのでエンジン回転数が高いと車輪の回転力が大きい状態、即ちクリープ力が大きい状態になる。仮にこの車の制御システムのどこかに不具合があると、異常に強いクリープ力が生じることになり、それを抑えつけるのはフットブレーキしかないということになる。
このような、不具合が増える高年式車は、微妙なフットブレーキ操作ができないと暴走しやすいということになる。このような複合現象を見逃して、高齢者が運転する車は暴走しやすいと単純に解釈されていないかどうかを確認する必要がある。
なお、このごろの四駆車には、後輪に小型電気モータが直結した構造のものが増えてきた。EVの機構もクラッチ相当の構造がない似たようなものであろう。これら、クラッチ機能なしの駆動系では、制御プログラムに不具合があるとフットブレーキだけが車を止める手段になりかねない。時間的余裕があれば、シフトをニュートラルにいれるなどの駆動力切り離し手段が取れるが、瞬間的にはフットブレーキに頼ることになる。
ぜひ、スクラムボタンのような非常用車停止装置を追加してもらいたい。
しかし、よく考えると、車というものは平均10年程度は持つものである。特にトヨタ車など品質管理が進んでいるものでは買い替えや廃車の必要性があまりない。即ち、平均的に見れば、高齢者は、使用年数の長い高年式車を持っていると考えられる。
高年式車であれば、必然的に経年劣化が生じている。制御系であれば、ブレーキパッド部やスプリング部など材質の劣化が進んで新車とは微妙に応答が変わってくる。
先日、起動時のクリープ力に不具合を起こしたプリウスも、ブレーキペダルを離したときにスムーズなブレーキ力の減少ができなくなっていたように感じる。即ち、踏力による微妙なブレーキ制御が難しく、足を徐々に離しても、突然、ブレーキ力が無くなるような状態になっていたのである。
このようなブレーキ状態で、エンジン回転数が通常より高い状態でスタートしたうえに、立体駐車場でのスタートなので、やや下り坂になっている方向に車を発進させたため、平坦な場所よりクリープ力が強く働いて制御が困難になったと考えられる。
プリウスでは、一般のガソリンエンジンAT車のような流体クラッチは組み込まれていない。即ち、車輪に直結する流星歯車機構にエンジン力と電気モータ力が同時に入力される構造になっているのでエンジン回転数が高いと車輪の回転力が大きい状態、即ちクリープ力が大きい状態になる。仮にこの車の制御システムのどこかに不具合があると、異常に強いクリープ力が生じることになり、それを抑えつけるのはフットブレーキしかないということになる。
このような、不具合が増える高年式車は、微妙なフットブレーキ操作ができないと暴走しやすいということになる。このような複合現象を見逃して、高齢者が運転する車は暴走しやすいと単純に解釈されていないかどうかを確認する必要がある。
なお、このごろの四駆車には、後輪に小型電気モータが直結した構造のものが増えてきた。EVの機構もクラッチ相当の構造がない似たようなものであろう。これら、クラッチ機能なしの駆動系では、制御プログラムに不具合があるとフットブレーキだけが車を止める手段になりかねない。時間的余裕があれば、シフトをニュートラルにいれるなどの駆動力切り離し手段が取れるが、瞬間的にはフットブレーキに頼ることになる。
ぜひ、スクラムボタンのような非常用車停止装置を追加してもらいたい。
低レベル放射性廃棄物の海外移出をどう考えるか ― 2021年09月20日 16:25
産業廃棄物を海外移出することは、普通に行われている。東京の産業廃棄物が他県に移送されるのとはちょっと異なる。それは、国民が選んだ政府、法律の範囲内での移送とは異なり、移送された国の住民が関わることなくその国内で移送行為、廃棄行為が合法的に行われる可能性があるということである。
産業廃棄物としての放射性廃棄物の特別な点は、目に見えないために、その有害性が明確になりにくいことにある。従って、上記のような民主国家では不法といえる行為がさらに容易にできることになる。
実は放射性廃棄物としては産業用以外に医療用放射性廃棄物がある。これも日本では東北地方に移送され、永久保管されているとのことである。
原発からでた放射性廃棄物のほうは、政治問題となり、国内での廃棄、保管が難しいものとなっている。それで海外移送すればよいという話が出てきて、新聞の一面を占めることになった。一方、医療用放射性廃棄物は、国内に保管してもだれも問題にしない。
これは、国民の知識不足なのか、原発の政治利用なのか、両方なのかもしれないが、いずれにせよ、理性的な態度とは言えない。
地産地消がいいとか、ゼロカーボンが目標だなどというのであれば、放射性廃棄物も、医療用、産業用を問わず、国内で処理処分できるようにすることが必要である。
これは、憲法前文に書かれた尊敬される国民となる道でもある。
そのためには、放射性廃棄物、照射線の人体影響に関わる基準を見直すことである。医療用放射性廃棄物が野放しに近い状態である一方、産業用放射性廃棄物は海外移送としなければならないような状況になってしまった規制体系を基本から見直し、広島長崎のデータによる古い非科学的ともいえる基準に依存することなく、独自の科学的エビデンスに則った基準により法規体系を整備するとともに、国民の放射線、放射性廃棄物に対する知識レベルを向上して、政党の党首選挙の争点となったり、政治問題化したりしないよう、様々な対策を練る必要がある。
産業廃棄物としての放射性廃棄物の特別な点は、目に見えないために、その有害性が明確になりにくいことにある。従って、上記のような民主国家では不法といえる行為がさらに容易にできることになる。
実は放射性廃棄物としては産業用以外に医療用放射性廃棄物がある。これも日本では東北地方に移送され、永久保管されているとのことである。
原発からでた放射性廃棄物のほうは、政治問題となり、国内での廃棄、保管が難しいものとなっている。それで海外移送すればよいという話が出てきて、新聞の一面を占めることになった。一方、医療用放射性廃棄物は、国内に保管してもだれも問題にしない。
これは、国民の知識不足なのか、原発の政治利用なのか、両方なのかもしれないが、いずれにせよ、理性的な態度とは言えない。
地産地消がいいとか、ゼロカーボンが目標だなどというのであれば、放射性廃棄物も、医療用、産業用を問わず、国内で処理処分できるようにすることが必要である。
これは、憲法前文に書かれた尊敬される国民となる道でもある。
そのためには、放射性廃棄物、照射線の人体影響に関わる基準を見直すことである。医療用放射性廃棄物が野放しに近い状態である一方、産業用放射性廃棄物は海外移送としなければならないような状況になってしまった規制体系を基本から見直し、広島長崎のデータによる古い非科学的ともいえる基準に依存することなく、独自の科学的エビデンスに則った基準により法規体系を整備するとともに、国民の放射線、放射性廃棄物に対する知識レベルを向上して、政党の党首選挙の争点となったり、政治問題化したりしないよう、様々な対策を練る必要がある。
ウイルス捕集ロボットを定期巡回させよう ― 2021年09月21日 19:14
かつて、原発事故や原爆実験が行われたころ、大気中の放射性物質を捕集するために自衛隊機が捕集用シートを付けて日本上空を飛行した。
現在、コロナの新規感染者は減少しているが、人流は減ってはいない。第6波が来ると専門家は言うがそれがいつになるのかは明確ではない。その理由は、主に感染してから発症するまでのタイムラグが長すぎることにある。
それならば、市中のウイルス濃度をモニターして、ウイルス濃度が上がればすぐに検知できるようにすればよいはずである。
そのために、人ごみや飲食店でのウイルス濃度を検出できるよう、ウイルス捕集装置を装着させたヒト型ロボットを多数配置すればよい。
ウイルスの補修方法や新型コロナウイルスのみの検出方法は、これまでPCR検査などを多数行ってきたのであるから、関係者は十分承知しているだろう。
少なくとも、新型コロナウイルス濃度の時間的な変化は、感染から2週間遅れで発現するという感染者増加よりは相当早く検出できると考えられる。
厚労省、関係機関は早急にウイルス捕集ロボットを盛り場や駅など主要感染エピセンターに配置し、時間遅れ無しにウイルス濃度増大警報を出してもらいたい。これで第6波のピークは相当程度低く抑えられるはずである。
現在、コロナの新規感染者は減少しているが、人流は減ってはいない。第6波が来ると専門家は言うがそれがいつになるのかは明確ではない。その理由は、主に感染してから発症するまでのタイムラグが長すぎることにある。
それならば、市中のウイルス濃度をモニターして、ウイルス濃度が上がればすぐに検知できるようにすればよいはずである。
そのために、人ごみや飲食店でのウイルス濃度を検出できるよう、ウイルス捕集装置を装着させたヒト型ロボットを多数配置すればよい。
ウイルスの補修方法や新型コロナウイルスのみの検出方法は、これまでPCR検査などを多数行ってきたのであるから、関係者は十分承知しているだろう。
少なくとも、新型コロナウイルス濃度の時間的な変化は、感染から2週間遅れで発現するという感染者増加よりは相当早く検出できると考えられる。
厚労省、関係機関は早急にウイルス捕集ロボットを盛り場や駅など主要感染エピセンターに配置し、時間遅れ無しにウイルス濃度増大警報を出してもらいたい。これで第6波のピークは相当程度低く抑えられるはずである。
統計論がピンとこない訳 ― 2021年09月22日 06:05
ある米国大統領が言った言葉であるが、嘘には3種あり、一つは大きな嘘、二つ目は小さな嘘、三つめが統計だそうである。
統計が常に嘘だとは断定できないが、直感的に理解できないとそのように感じられるかもしれない。
統計論では確率事象を扱うため、因果関係がわかるのではないかと勘違いすることが多い。
統計論は相関関係のある事象を対象とする数学であって、物理現象を説明するものではないことを認識する必要がある。決して因果関係が統計的処理で分かると期待してはいけない。
物理は再現性があり、常に同じ法則が成立することを目指しているから、因果関係は明確であるべきである。一方、統計論では、生じた事象の因果関係は問題にしない。単に、事象の確率が分かっているだけである。それが、事象の性質によりさまざまな確率分布として処理可能であるという数学的操作の対象になりうるというだけである。
正規分布であれば、例えば測定値は真値を中心に分布するから、測定誤差が正規分布するという感覚は理解できる。但し、その測定値がなぜ真値から正規分布としての誤差を生じたか物理的説明はできない。
ポアソン分布ならどうだろう。ポアソン分布では、生起確率の小さい事象が、多数回試行したときに何回成功するかを表す確率分布である。
(これだけでも十分分かりにくい。何をいっているのか例示しないと理解できない。)
例えば、サッカーの試合の得点数はポアソン分布に従うと言われている。確かにサッカーの1試合当たりの得点数は少なく、0点から数点までが殆どであろうが、多くの試合の得点数を横軸に、縦軸をその試合数としてプロットしてみる。全試合平均得点をλとすると、縦軸にプロットした試合数の分布形がλで規定されるポアソン分布をすることが分かっている。
なぜなのか。これは、物理ではなく、時間又は空間を細分化したばあいに独立に一定確率で生起する事象を数学処理した結果に過ぎないからである。(サッカーの得点であれば、得点になるかどうかは各シュートごとに独立な事象であることに相当している。)そこに、物理的因果関係を持ち込もうとしてもできない相談であることを最初から認識しておくことである。この認識がないと無駄な悩みを抱えることになる。
即ち、統計論を持ち込むということは最初から因果関係の説明をあきらめる、或いは、因果関係が不明であっても、役立ちそうな事象予測をおこなうためにある(サッカーの得点ボードが一桁で多くの試合では十分であることなどを判断できる)ーーと考えれば統計論での説明を納得はできなくても仕方ないとは思えるだろう。
では、新型コロナウイルス感染者数予測はどうなのか。医療統計では、様々な条件をパラメータに予測式を立てているようである。因果関係がある程度ある場合もあろうが、多くは物理的な因果関係は分かっていない流行現象を対象としている。これも、経験を積んで確率分布式、予測式の精度向上に努める以外にはないというのが、現状の医学のレベルだと納得する以外にないであろう。
SF作家小松左京は「復活の日」でパンデミックがありうると予測し、現実にはほとんどの国、機関が今回の新型コロナパンデミックを予測できてはいなかった。これも医学、生物学の未発達による因果関係の知識の不十分さによるとあきらめざるを得ないが、この2年の経験とデータの統計的利活用で、来年こそは予測可能な世界になっていることを期待したい。
統計が常に嘘だとは断定できないが、直感的に理解できないとそのように感じられるかもしれない。
統計論では確率事象を扱うため、因果関係がわかるのではないかと勘違いすることが多い。
統計論は相関関係のある事象を対象とする数学であって、物理現象を説明するものではないことを認識する必要がある。決して因果関係が統計的処理で分かると期待してはいけない。
物理は再現性があり、常に同じ法則が成立することを目指しているから、因果関係は明確であるべきである。一方、統計論では、生じた事象の因果関係は問題にしない。単に、事象の確率が分かっているだけである。それが、事象の性質によりさまざまな確率分布として処理可能であるという数学的操作の対象になりうるというだけである。
正規分布であれば、例えば測定値は真値を中心に分布するから、測定誤差が正規分布するという感覚は理解できる。但し、その測定値がなぜ真値から正規分布としての誤差を生じたか物理的説明はできない。
ポアソン分布ならどうだろう。ポアソン分布では、生起確率の小さい事象が、多数回試行したときに何回成功するかを表す確率分布である。
(これだけでも十分分かりにくい。何をいっているのか例示しないと理解できない。)
例えば、サッカーの試合の得点数はポアソン分布に従うと言われている。確かにサッカーの1試合当たりの得点数は少なく、0点から数点までが殆どであろうが、多くの試合の得点数を横軸に、縦軸をその試合数としてプロットしてみる。全試合平均得点をλとすると、縦軸にプロットした試合数の分布形がλで規定されるポアソン分布をすることが分かっている。
なぜなのか。これは、物理ではなく、時間又は空間を細分化したばあいに独立に一定確率で生起する事象を数学処理した結果に過ぎないからである。(サッカーの得点であれば、得点になるかどうかは各シュートごとに独立な事象であることに相当している。)そこに、物理的因果関係を持ち込もうとしてもできない相談であることを最初から認識しておくことである。この認識がないと無駄な悩みを抱えることになる。
即ち、統計論を持ち込むということは最初から因果関係の説明をあきらめる、或いは、因果関係が不明であっても、役立ちそうな事象予測をおこなうためにある(サッカーの得点ボードが一桁で多くの試合では十分であることなどを判断できる)ーーと考えれば統計論での説明を納得はできなくても仕方ないとは思えるだろう。
では、新型コロナウイルス感染者数予測はどうなのか。医療統計では、様々な条件をパラメータに予測式を立てているようである。因果関係がある程度ある場合もあろうが、多くは物理的な因果関係は分かっていない流行現象を対象としている。これも、経験を積んで確率分布式、予測式の精度向上に努める以外にはないというのが、現状の医学のレベルだと納得する以外にないであろう。
SF作家小松左京は「復活の日」でパンデミックがありうると予測し、現実にはほとんどの国、機関が今回の新型コロナパンデミックを予測できてはいなかった。これも医学、生物学の未発達による因果関係の知識の不十分さによるとあきらめざるを得ないが、この2年の経験とデータの統計的利活用で、来年こそは予測可能な世界になっていることを期待したい。
AIと冤罪 ― 2021年09月23日 10:17
半世紀前に読んだSFに、ある中学生が殺人犯として逮捕され、宇宙にある刑務所に収容されるというものがあった。当時、DNAというものはよくわかっていなかったが、コンピュータがその中学生を犯人だと断定し、冤罪を着せられて島流し(宇宙流し)になったという話である。コンピュータが犯行現場を分析し、その痕跡からその中学生固有の生物学的情報を検出したことが動かぬ証拠となったのである。このSFでは、真犯人はその証拠を出力したコンピュータの操作技師だった。
このSF小説を読んだ時から半世紀がたったが、現実の世界で似たような冤罪事件が起こっている。有名なものでは、足利事件がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
和歌山毒物カレー事件も、唯一の物証といわれていたヒ素が、カレーに入れられたヒ素と死刑囚宅から見つかったヒ素とが、完全には一致していないとの鑑定結果がでている。冤罪の可能性が強まっているように思える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E6%AF%92%E7%89%A9%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
これらの判断はいずれも、関係した裁判官が科学的鑑定といわれるものを鵜呑みにしたために生じたものであろう。さらに様々な状況証拠が有罪判断を裁判官の心中で補強したのだろうが、言い訳でしかない。
最近はやりのAIによる本人確認の判断はさらに、複雑な要素を含んでいる。多数のデータと複雑なアルゴリズムの組み合わせにより、だれもが他人と判断される可能性を有する。このようなことは統計論にもとづくAIデータ処理では避けられないものだと思う。
ただし、AIは多数のデータの蓄積により、効率的に正しいと思われる判断をすることで、より良い選択を瞬時に低コストで行えるので、人類の幸福に寄与するものでもある。
しかし、AIは、運の悪い、或いは平均から大きく外れた人々には有害なものとなる可能性も持っている。
例えば、殺人事件の起こった現場のカメラの映像や残されたDNAなどから、AIを活用した操作では、だれもが犯人になる可能性があることを上記の歴史が教えてくれる。
では、どうするか。
少なくとも人の命にかかわるAI判断については、採用を保留する必要がある。
例えば、上記のような冤罪が科学技術の結果として判断されたとしても、間違いの可能性が必ずあるのだから、死刑という取り返しのつかない制度は廃止すべきであろう。死刑廃止は、長い科学技術の歴史を有する欧州諸国の大勢になっている。
AIをどう扱うか、政治家やジャーナリストなど影響力の強い人々の科学リテラシーを向上して、冤罪などでの不幸な出来事を防ぐ努力をすべきである。
主要全国紙の記事ですら、物理量を表現する際に、その単位の使い方を間違えたり、曖昧であったりすることをよく見かけるのである。
このSF小説を読んだ時から半世紀がたったが、現実の世界で似たような冤罪事件が起こっている。有名なものでは、足利事件がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
和歌山毒物カレー事件も、唯一の物証といわれていたヒ素が、カレーに入れられたヒ素と死刑囚宅から見つかったヒ素とが、完全には一致していないとの鑑定結果がでている。冤罪の可能性が強まっているように思える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E6%AF%92%E7%89%A9%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
これらの判断はいずれも、関係した裁判官が科学的鑑定といわれるものを鵜呑みにしたために生じたものであろう。さらに様々な状況証拠が有罪判断を裁判官の心中で補強したのだろうが、言い訳でしかない。
最近はやりのAIによる本人確認の判断はさらに、複雑な要素を含んでいる。多数のデータと複雑なアルゴリズムの組み合わせにより、だれもが他人と判断される可能性を有する。このようなことは統計論にもとづくAIデータ処理では避けられないものだと思う。
ただし、AIは多数のデータの蓄積により、効率的に正しいと思われる判断をすることで、より良い選択を瞬時に低コストで行えるので、人類の幸福に寄与するものでもある。
しかし、AIは、運の悪い、或いは平均から大きく外れた人々には有害なものとなる可能性も持っている。
例えば、殺人事件の起こった現場のカメラの映像や残されたDNAなどから、AIを活用した操作では、だれもが犯人になる可能性があることを上記の歴史が教えてくれる。
では、どうするか。
少なくとも人の命にかかわるAI判断については、採用を保留する必要がある。
例えば、上記のような冤罪が科学技術の結果として判断されたとしても、間違いの可能性が必ずあるのだから、死刑という取り返しのつかない制度は廃止すべきであろう。死刑廃止は、長い科学技術の歴史を有する欧州諸国の大勢になっている。
AIをどう扱うか、政治家やジャーナリストなど影響力の強い人々の科学リテラシーを向上して、冤罪などでの不幸な出来事を防ぐ努力をすべきである。
主要全国紙の記事ですら、物理量を表現する際に、その単位の使い方を間違えたり、曖昧であったりすることをよく見かけるのである。
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